第三話 これではまるで、隠し撮りだ
呆気に取られている間に、鷲尾小夜はさっさと前の席に座ると、流空の存在など忘れたかのように授業の準備に取りかかる。
気のせいでなければ、小夜の眉間には微かにしわが寄っていた。
眦も、わずかに上がっていたような気がする。
そして何より、声に強い拒絶が含まれていた。
それが、一番はっきりとした意思表示だった。
よろしくはいらない。
つまり、仲良くしてくれなくていいです、ということなのだろう。
どうして、と考えても始まらないので、流空は自分の席に黙って腰を下ろした。
鞄の中から筆記用具を取り出し、机の上に広げる。
真ん中を空けた隣の席に誰かが座ったので、軽く会釈をした。
スマホを見る。
授業開始まであと八分。
教室の中を見渡すと、席の半分ほどが埋まっていた。
男女の比率は女子のほうが多く見えるが、半々といったところだろうか。
学科の割合は、おそらく映像学科が一番多い。
流空と同じ写真学科の学生は、数人しか見当たらない。
他は、アニメーション学科らしき連中が多そうだ。
そこそこ、にぎやかな授業になりそうな予感がする。
自分の立ち位置を見定めていると、前の席から「あわっ」という間の抜けた声がした。
続いて、ゴトッ、と鈍い音がする。
勢いよく引かれた小夜の椅子が、流空の長机にぶつかった。
一瞬、後ろを振り返ろうとする素振りを見せたが、結局振り返らなかった。
「ごめんなさい」と口の中でだけ謝る声が聞こえたような気がする。
特に注意を向けようとしなくても、目の前の席なので小夜の行動はどうしても視界に入ってきた。
小夜は小さい背中を丸め、机から落としたらしい何かを慌てて拾い上げている。
一度立ち上がればいいものを、膝に乗せた鞄を下ろしたくないのか、椅子に座ったまま拾おうとしているから妙な格好になっていた。
三人席の真ん中は空席なのだから、一旦鞄を置けばいいのに。
流空の隣の席の男が、小さく笑った。気持ちはわかる。
ちょっと笑ってしまうような、微笑ましい光景だ。
しかし流空が笑うとまた睨まれるような気がして、傍観するに留めた。
拾い物に必死な彼女には、幸い笑い声は聞こえていなかったらしい。
どうにか物を拾い終えると、今度は前屈みになっている。
見てみろよ、と隣の男からジェスチャーを送られ、促される形で体を傾いだ。
彼女の体が小さいので、手元はすぐに見えた。
どうやら、彼女が落としたのはハンディーカムのビデオカメラらしい。
彼女はカメラを無事に拾い終えると、何かの動画を再生したりして、壊れていないか確かめているようだった。
ひとしきりカメラのチェックを終えると、彼女はおもむろにカメラを構えゆっくりと教室内を撮していく。
誰の許可も取らずに、ひっそりと。
これではまるで、隠し撮りだ。
とはいえ、美術大学なんてものに入ると、変わり者はいくらでもいるので、この程度のことでは驚かない。
おおかた映像学科の子で、撮ることに取り憑かれてでもいるのだろう。
気になったものにカメラを向ける気持ちは、流空にもわかる。
彼女の観察をやめたタイミングで横から手が伸びてきて、トントンと机を叩いた。
顔を向けると、隣の席の男が人好きのする笑顔を浮かべている。
「野本。野本洋平。そっちは?」
「渡会。どこ学科?」
敢えて下の名前を言わずに話を進めたが、野本は机の上の名前シールをちら見してから「アニメ。そっちは?」と言った。
どうやらコミュニケーション能力が高い男らしい。
「写真。アニメってこの授業取る奴多い?」
「それなりに。人気はあるけど、何せほらハードルが」
「まあ、どこも一緒か」
「少数派同士、仲良くしてやって」
「こちらこそ」
流空が野本とそれこそ初対面らしいやり取りをしている間も、彼女はカメラを回していた。
流空の目には、さして面白みのある風景には見えない。
ありきたりの教室の、ありきたりの風景。
そこに何を見いだしているのだろう。
覗き込んだら、カメラの映像が見えないだろうか。
気持ちが少し傾いた時、教室前の扉が開き、細谷教授が入って来た。
教室のざわめきが、波が引くように小さくなっていく。
そっと様子を窺うと、彼女はビデオカメラを止めていた。
授業の内容を録画することは、基本的にこの大学では禁止されている。
それを破ってまで、隠し撮りを続ける気はないらしい。
教授の自己紹介から始まり、滑らかにガイダンスに移行していく授業の中、流空は彼女の形のよい丸い頭を見つめていた。
あんなにも熱心に教室を撮っていたというのに、彼女は流空がいる後ろの席だけは、頑なに撮ろうとはしなかった。