第九話 星降る夜にきみを想えば
夜の屋上は風があるせいか涼しく、過ごしやすい。
流空と小夜はふたりして仰向けに寝転がり、落ちてきそうなその星々を見上げていた。
泣いたのなんて久しぶり過ぎて、頭がぼうっとする。
それも好きな女の子の前でということもあって、流空は声をかけるタイミングを見つけられずにいた。
小夜は横で、何を考えているのだろう。
顔を見る勇気を出せずに空ばかり見上げる。
そんな流空の逡巡を読んだみたいに、小夜が言った。
「星、きれいだねえ」
少し間延びした口調は眠そうでもあり、妙に落ち着いた。
「うん。きれいだね」
「こんなにきれいだと、なんだかもったいないね」
言いたいことは、なんとなくわかる。
ふたりだけで見ているのがもったいないような、でも誰かに教えるのはもったいないような。
「天文部とか……来ないのかな」
星の観測をするのに、ここはもってこいの場所に思えた。
「案外、穴場なのかも」
「穴場かあ。いい場所見つけちゃったね」
話す度に、軽く鼻をすする。
まだ、完全に涙のあとは消えていない。
それに気づかないふりで、小夜は続けた。
「せっかくだから、この場所に名前をつけるのはどうかな?」
「名前って……『屋上』以外にってこと?」
「うん。ここが夜にこんなきれいな星が見られるんだってことを知ってるのは、私と流空くんだけでしょう?」
流空くん、と自然に呼ばれたことに顔が綻ぶ。
「これは一種の暗号だよ」
「暗号?」
ちょっと前までロマンティックな雰囲気だったものが、急に様相を変えた。
恋愛映画がスパイ映画に変わるようなそれは、小夜らしい。
「そう。暗号。そうだな……屋上、星、空、夜……天文台」
「「夜空天文台」」
声は、きれいに重なった。
「あはは、満場一致で決定だね」
「そうみたいだね」
小夜と流空だけの天文台。
小夜がどんな意味で「夜空」と言ったのかはわからないけれど、少なくとも流空はそんなふうに考えて決めた。
「今日からここを、夜空天文台と命名します」
ビシッと空に向かって宣言してから、小夜が身体を起こす。
すぐに何やらバッグをごそごそと探り始める音がして、何をしているのかと半身を起こしかけたところに、「はい」とポケットティッシュを差し出された。
「鼻に優しい高級ティッシュ。柔らかくて感動するよ」
涙にはティッシュ。
有り難くティッシュをもらい、鼻をかむとちょっとすっきりした。
小夜が言う通りとても柔らかくて、確かにそこらで配っているティッシュとはかなり質が違っていた。
それを感動、と表現する小夜がかわいいな、と笑みが零れる。
「あ、笑った。よーし、がんばった流空くんには、このチョコもあげよう。ちょっと溶けてるけど、チョコフォンデュだと思えば高級感も楽しめるよ」
購買で一番高い、ミルクチョコレート。
小夜が自分へのご褒美として買う、特別なチョコレート。
「一個?」
箱ごと差し出されたので手を伸ばしたままで待つと、小夜が嬉しそうに目を細めた。
「そうだなあ。五チョコいいよ」
「え、チョコって単位なの?」
「うん。流空くんには五チョコ進呈ね。元気になったら、もう三チョコあげる」
「はじめからはくれないんだ?」
「何事も全額前払いだと思ったら甘いよ」
ほらほら取った取った。
威勢の良い八百屋みたいな口調で言われて、声を立てて笑う。
もらったチョコレートは小夜の言う通りちょっと溶けていて、舌の上で甘くとろけた。
「小夜さん。僕はきみが好きだよ」
笑っていた小夜の瞳が、真剣なそれに変わる。
唇を引き結び、言いたい言葉をその瞳の中に閉じ込める。
「何か事情があるのはわかってる。待つって言ったのに、ふい打ちでずるいとも思う。でも、言わないまま後悔することになるくらいなら、ずるい奴でいい」
小夜の瞳の中には星が映り込んでいて、きらきらと煌めいてきれいだった。
「小夜さんも、僕を好きになってくれたらいいなって、思ってる」
返事をすぐにもらおうという気はない。
むしろ、返事は小夜の誕生日まで待つ気でいた。
どうしても自分の気持ちだけは伝えておきたくて、小夜を困らせている。
我侭でごめんねと思うけれど、口にしてしまうとチョコレートみたいな甘味が胸をいっぱいにしていた。
「帰ろうか。あんまり遅くなると、家の人も心配するよね」
立ち上がろうとした流空の指先を、小夜の手が摑んで止める。
くん、と引っ張られる形で座り直すと、小夜は迷子の子供みたいな顔をしていた。
「待って、私も流空くんに言いたいことがある」
「うん?」
この場でフラれたら、ちょっときついなと思う。
けれど、小夜の気持ちは小夜だけのものだ。
それを否定することだけはしまいと心に決めて、小夜の言葉を待った。
小夜はやっぱり途方に暮れたような顔をしていたけれど、決心したように口端を笑みの形に引き上げる。
「私も、流空くんが好きです」
一瞬、何を言われたのかわからなくて小夜を凝視してしまった。
小夜は流空の視線を受けても動じず、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
その瞳はやっぱり美しくて、目を引き寄せられた。
「……それって、恋人になってくれるってことであってる?」
「うん。よろしくお願いします」
まるで何かの弟子入りでもするかのように丁寧に頭を下げられて、大丈夫かなと苦笑いが漏れる。
「小夜さん、恋人ってこういうことする関係だってわかってる?」
小夜の柔らかな頰に両手を伸ばし、そっと触れた。
そのまま唇に触れてしまうのは簡単だったけれど、顔の見える距離までで止めて、小夜の反応を見る。
無理強いをして、恋人になってほしいわけではない。
正直に言えばそれでも嬉しいは嬉しいけれど、やっぱり小夜には笑顔でいてほしいから。
小夜はほのかな月明かりの下ですらわかるくらい顔を赤らめたくせに、流空をきつい視線で睨み上げた。
威嚇でもしているかのようだ。
「子供あつかいしないで。ちゃんとわかってるし、流空くんに同情して言ったわけでもないよ。ただちょっと、時間が早まっただけ。でもあとちょっとだったし、大丈夫だと思う。うん」
何が大丈夫なのか、流空にはわからない。
けれど、小夜はことさらそれが大事なようで、大きく頷いた。
たぶん、誕生日まで待ってほしいと言ったことと、何か関係あることなのだろう。
けれどそれより、小夜の返答のほうが流空には大問題で。
「つまり……誕生日が来たらOKしてくれる気だったってこと?」
「うん」
「本当に?」
「本当だよ。それなのに流空くん、フライングしちゃうんだもん」
やれやれ、と少し余裕が出てきた様子で肩を竦められ、笑ってしまった。
「ごめんね。我慢できなかったんだ」
「もういいよ。私も、そろそろ前に向かって歩かなきゃって思ってたから」
「僕とのことを前向きに考えててくれたってこと?」
「うーん、そうとも言うかな?」
「もしそうなら、僕の片思いは報われてたわけだ」
「片思い……?」
小夜が驚いたように流空を見上げる。
「両思いになる前は、みんな片思いでしょ? 小夜さんに恋い焦がれてた頃の話聞きたい?」
「えっ、あ……どうしよう、でも……ちょっと、聞きたいかも」
どきどきしているのがわかる小夜はとてもかわいくて、うっかり小さな頭を引き寄せてその額にキスをしていた。
小夜が声にならない声で叫ぶ。
「あ、ごめん。つい」
「ついって!」
額に手を当て、小夜は真っ赤になってよろめた。
思わず笑うと、すぐに睨まれる。
そんな顔をされても、キスしたくなるだけなのに。
「小夜さん、さっきの三チョコ、もらえる?」
「え、いいけど……」
元気になったらもらえると約束していたチョコを要求すると、小夜は急に話が変わったことに戸惑いながらもバッグからチョコレートを三つ出してくれた。
どうぞ、と賞品みたいに手渡され、形だけ流空も恭しく受け取る。
「じゃあ、これ。小夜さんにもあげるね」
意味がわからないと、小夜が首を傾げた。
無防備なその唇にチョコレートをさっと押し込み、唇を寄せる。
「っ」
「フライングを許してくれた、お礼」
触れ合った唇からは、チョコレートの甘い味が広がっていく。
小夜は怒ったような顔をして流空の背中を叩いてきたけれど、「初めてだったのに!」という声にごめんという言葉は引っ込んで、顔がにやけてしまった。
「流空くん、やっぱりきみはSじゃないかなっ」
むきになったように言う小夜は、ゆでだこのように耳まで赤くしている。
こんなことでこの先この人は大丈夫かなと思うけれど、少しずつ一緒に歩いていくのも悪くないと思ってしまうあたり、本当にSかもしれないなと笑った。
小夜がいてくれてよかった。
これからはひとりきりの夜すらきっと、愛しく感じる。




