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きみを殺すための5つのテスト  作者: 狐塚冬里
第四章 恋は世界を変える
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第八話 流れる空

 何をしたわけでもないのにぐったりと疲れていた。

 さっさと家に帰ろうと思うのに、意思に反して足が大学に向く。


 試験期間のおかげで構内は学生の姿もまばらで、喪服姿の流空が混じっても誰も気にしなかった。

 ちょっと暗い、リクルートスーツくらいに見えたのかもしれない。



 小夜に会いたかった。



 小夜に会って、確認したかった。

 自分に中身がちゃんとあることを。


 母を亡くしても、胸がまるで痛まない。

 あの家族たちのように、涙が頰を濡らすこともない。

 悲しいという気持ちが、どこにも見つからなかった。


 薄々は気づいていた。

 自分がどこか人として欠陥があるのだと、気づいてはいた。


 けれどそれはこれから生きていく中で修復できるものなのだと、勝手に思っていた。


 それがどうだ。


 壊れた箇所を目の当たりにして、呆然とする。




 小夜に会いたい。




 小夜に会えば、錆びついた感情が動き出して遅れた涙が零れるのではないかと、淡い期待を抱いていた。


 電話をすれば連絡がつくことはわかっていたけれど、大学にいなければきっと彼女は気にしてしまう。

 だから電話はせずに、ふらふらと小夜を捜して歩いた。


 空き教室に、スタジオに、食堂に、カフェテリアに、中庭に。


 小夜の姿はないかと歩き回り、歩いている間に、空は茜色から夜の色へと変わりつつあった。

 それなりに広い大学だ。

 空き教室を見て回るだけでも大変なのに、大学に来ているかもわからない人物を捜すなんて無謀にもほどがある。


「……何してるんだろ」


 古いポラロイドカメラの入った紙袋を手に、中庭に立ち尽くした。

 夜になってしまう前に、帰ったほうがいい。

 この気持ちに浸ったまま夜の暗い構内にひとりになるのはよくないと、理由もわからず感じていた。


 帰ろうと足を引きずった時、「渡会くん?」と背中に風が吹いたみたいな涼しげな声がかかる。

 振り返ると、小夜がいた。

 小夜は驚きに目を丸くして、中庭へと続く階段を駆け下りてくる。

 そんなに急ぐと転んでしまうのではと心配になったけれど、どうにか無事に流空の前までやって来てくれた。


「どうして大学に? 今日、だったんだよね?」


 何が、とは言わずに流空の喪服を痛ましげな瞳で見つめる。

 他人のことなのに、自分のことみたいに痛い顔をする小夜が、やっぱり好きだなと思った。


「古いポラロイドカメラが手に入ったから、見せようと思って」


 母の墓に入れてもらえたかもしれないカメラを、袋の中から取り出そうとした。

 けれど、歩き回って疲れているのか、上手くカメラを摑めない。


 父の物だったポラロイドカメラは、アンティークとまではいかないけれど、それなりに年季の入った雰囲気もある。

 これなら映画に映えるし、小道具にちょうどいいと思って。


 用意していた台詞は、喉にこびりついたように出てこない。

 覗き込んだ袋の中から、カメラのレンズが流空をじっと見上げていた。


 見えているぞ。

 お前がどんなに取り繕っても、その中見は空っぽだ。

 この目は誤魔化せない。


 そう言われている気がして、それ以上カメラを見ていられず顔を背けた。

 小夜が心配げに流空の顔を見上げる。

 その大きな瞳に映っているであろう自分の顔も見られなくて、視線を逃がした。


「不安に、なったんだ」


 思っていた以上に、自分の声が脆く崩れている。

 母の死よりも、自分のことでこんなにも動揺している自分に幻滅する。

 みっともない。


 こんな自分を見せたくないと思うのに、一度吐き出した言葉は戻らないどころか次から次へとあとを突いて音になった。


「何も、感じなくなったんじゃないかって」


 ついに、壊れたんじゃないかと思って。


「不安できみに会いたくなって」


 小夜に会いさえすれば、元に戻れる気がして。


 押しつけるばかりの言葉を、小夜は黙って受け止めてくれていた。

 瞬きすらせずに、そのすべてを目に焼き付けようとでもするかのように。


「母が亡くなったのに、涙ひとつ出ない」


 そういえば、最後に泣いたのはいつだろう。


 思い出せない。


 泣いたことがあったのかすら、思い出せない。


「いい思い出だってあったはずなのに、何ひとつ浮かばなくて、泣けないんだ」


 本当にいい思い出はあったのだろうか。

 あったらいいなと望んでいるだけで、そんなもの初めからなかったのかもしれない。


 ああ、でももし何もないのなら、こうして親が死んでも泣けない子供ができたとしても納得できる。


 それはきっと、僕のせいじゃない。


「それどころか、赤の他人の……テレビで有名人が死んだってニュースよりも、ずっと悲しくない」


 母には、新しい家族がいた。

 もう、流空の家族ではなくなっていた。

 流空の母では、なくなっていた。


 あの家族は流空や父とは違い、共に笑い、別れの時には号泣してくれるような理想的な家族だ。

 あの家族がいれば、流空まで悲しむことはないのだと、悲しみの全体の総容量を量るみたいにして考えていた。


 もう十分、悲しんでくれる人がいるのなら、流空の分はいらない。


 だって、家族であることを先にやめたのは母さんのほうだ。


「小夜さん。僕はやっぱり空っぽなのかな」


 真っ黒な小夜の瞳に映った流空の顔には、なんの表情も浮かんでいないように見えた。


 泣けばいいのか、

 怒ればいいのか、

 笑えばいいのか、わからない。


 正しい表情を選べない流空の代わりみたいに、小夜がくしゃりと顔を歪めた。


「来て」


 華奢な小夜のどこにそんな力があるのかというほどきつく、手を握られた。

 どこに、と聞く間も与えられず、小夜はぐいぐいと流空を引っ張っていく。


 手を引かれる間、流空は一言も口を開かなかった。

 小夜もまた無言で、繫いだ手のひらだけが熱い。


 連れて行かれた先は、十一号館の屋上だった。

 試験期間ということもあり、この時間まで屋上でだらけているような学生の姿はない。

 目的地についたらしいのに、小夜は流空の手を離さずにいた。


「見て」


 屋上の端にまで流空を連れて行くと、ようやく小夜が口を開く。

 指差された先では、ちょうど太陽が山間に沈んでいくところだった。

 真っ赤な日が見る間に飲み込まれ、夜の帳が降りてくる。


「さっきまであんなに真っ赤だったのに、もう紫色に変わってる。もう少ししたら星が輝きはじめて、月明かりがきれいに射すよ。それが、空」


 何を言われているのかわからず、小夜の顔をただただ見下ろした。

 小夜の瞳は強い光にきらきらと輝いていて、きれいだった。


「きみは空には何もないって言うけど、そんなことない。朝がきて、昼がきて、夕方になって夜がきて、空は一日の間だけでもすごく色んな姿を見せてくれる。雲だって星だって、空がなければ見えない」


 ちゃんと見て、と小夜が空いた手を空に翳す。

 小夜の指先が、消えかけた夕日の赤に透けていた。

 流空がきちんと小夜から空に視線を移したのを確認してから、小夜がまた口を開く。


「空っぽなんじゃなくて、空はぜんぶを包み込んでくれてるんだよ」


 すぐ近くから、小夜の凜とした声が聞こえていた。

 芯が通っていて、それでいて優しい、彼女の声。


「──流空くん」


 はっ、とした。


 彼女の声で呼ばれたそれは、自分の名前ではないように美しく響く。


「流れる空っていうきみの名前、すごく素敵だと思う」


 ふいに、小学生の頃の記憶が脳裏に浮かぶ。

 あれは、自分の名前の由来を調べてくるという宿題を出された時のことだ。


 どの教師にも一回で名前を読んでもらえたことのなかった流空は、自分の名前が好きではなかった。

 字のバランスも書きづらいし、不便なことしかない。

 これは両親に文句を言ってやるいい機会だと、鼻息を荒くして家に帰った。


「どっちが僕の名前つけたの?」


 頭から責める口調だった流空に、母は一枚の写真を出してきた。

 それは、流空にはなんの写真だかよくわからない、太陽が沈もうとしている空に、うっすらと複数の光の線が走っている写真だった。


「この空の写真が、あなたの名前の由来よ。写真を撮ったのはお父さんなんだから、文句ならお父さんに言いなさい」


 母は流空に写真を渡しただけで、説明はしてくれなかった。

 仕方なく、宿題の回答代わりに写真を持っていった流空に、当時の担任はその写真がなんの写真なのか教えてくれた。


「これは、星の軌跡を写したものね。とても、素敵な名前の由来だわ」


 地球の自転運動によって星が尾を引いたように見える、写真。

 それがどうして流空の名前の由来なのか、いまいちピンときていなかった。

 けれど、小夜がそれを教えてくれた。


 朝がきて、昼がきて、夕方になって夜がきて。


 あれは、時間の流れを切り取った、空の写真だ。


 空っぽみたいで好きになれなかった自分の名前。


 でも本当は、雲を、星を、月を、太陽を……流れる時間すらその身に包み込んだ空が、流空の名前だった。




 愛されて、つけられた名前だ。




 ひとつ謎が解けると、それをヒントにしたみたいに、思い出が解けていく。


 まだ漢字を習ってもいない幼稚園児の頃、「流空」と得意気に漢字で書いた流空の頭を、母は撫でてくれた。

 漢字で書けてえらいわね、ではなくて、いい名前でしょう? と自慢げに笑って。


 お絵かきの時間に描いた母の似顔絵には、賞をくれた。

 クレヨンで描いただけのそれに、がんばって描いてくれたからとリボンをつけて。


 いくら思い出そうとしても、いい思い出なんてちっとも出てこなかったはずなのに、おもちゃ箱の底にしまっていたみたいに次から次へと思い出す。


 いつの間にか消えてしまった母の笑顔。



 ──それを、撮ってあげたかった。



 母の笑顔を、もう一度見たかった。

 母を笑わせてあげたかった。

 かつて父が撮った写真のように母を笑わせたくて、流空はカメラをねだった。


 自分をおいて行った人の笑顔を撮りたくてカメラを手に取ったなんて、ずっと認めたくなかった。


 母さん。

 お母さん。


 撮って、あげられなかった。


 流空は母の笑顔を、一度も撮ってはあげられなかった。


「大丈夫だよ。……渡会くんは、空っぽなんかじゃない」


 繫いだままだった手を強く握られ、小夜を見下ろした。

 小夜の目はまっすぐ、流空を見つめている。

 目の奥が熱くなり、ぐっと奥歯を嚙み締めた。


「ねえ、小夜さん」

「うん」

「……下の名前、呼んでもらえる?」


 情けなく震える声を、小夜は笑わない。


「うん。うん……。流空くん」


 いい名前だな、と素直に思えた。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 頭を引き寄せられ、小さな胸に抱きしめられる。

 それは不自然に首を曲げるような体勢で、苦しくすらあったのに、酷く安堵した。


「こうしてれば、見えないから。何も、見えないから」


 撫でるでもなく、慰めるでもなく。

 小夜はきつく流空を腕の中に抱きしめる。

 優しい夜が訪れたように、流空の視界が暗くなった。


 母さん。

 あの優しそうな家族と暮らしている間、少しでも僕たちのことを思い出した?

 会いたいと、思ってくれたことはあった?


 会いたいと言っても、もう遅いだなんて。



 小夜の腕の中で、流空は母が死んでから初めて涙を流した。


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