第六話 晴れの日はまたくるよ
梅雨明け宣言はなかなかされず、じりじりと課題提出日までの日程が削られていたが、ようやくその日、雨が止んだ。
地面が濡れているのではと心配したけれど、幸い前日も曇り時々雨程度だったので、昼頃には地面もすっかり乾いていた。
すでに試験期間に入っており、流空も小夜も午前の試験を受けてからすぐに中庭に集合する。
「試験どうだった?」
会うと同時に、ビデオカメラを向けられる。
小夜の唇には満足そうな笑みが浮かんでおり、これは試験がうまくいったのだなと聞かなくてもわかった。
「まあまあだったよ。教科書持ち込みOKの科目だったし。そっちは?」
「ばっちり。優は約束されたようなものだよ」
カメラを回したままVサインを向けられ、思わず吹き出す。
普通は、カメラを向けられている側がするものだからだ。
小夜はファインダーから頭をちょっとずらして流空を見て、
「渡会くんもいいことあったの?」
と嬉しそうな顔を浮かべる。
自分のことよりも、人のことのほうがより嬉しそうなのだから、小夜はかわいい。
「小夜さんが今日もかわいくて幸せだなって」
「えっ」
思った通りのことを言っただけなのに、小夜はスイッチでも入れたみたいに頰を赤くした。
その初心な反応がまたかわいくて困るのだけれど、本人はこれでからかわれているだけだと思っているから困る。
誰かの小さな反応ひとつで自分の感情が揺さぶられるだなんて、知らなかった。
小夜のことを好きになってから、新しい発見がいっぱいだ。
大げさに言うと、世界が鮮やかな色に塗り替えられていくような、そんな感覚。
「とりあえず、ラストシーン撮る? お腹空いてるなら先にお昼にしてもいいけど」
何もなかったかのように笑いかけると、あからさまに小夜がほっとしたような顔をする。
こんなに無防備で、この子は大丈夫だろうか。
自分の保護者みたいな目線が可笑しい。
小夜はまだカメラを流空に向けたままで、腹具合を測るように自分の腹部に手を当てた。
「今日一日は大丈夫らしいけど、先に撮っちゃってもいい? すっきりしてからのほうが、ご飯も美味しく食べられる気がする」
「賛成。そうだ。今日で撮りは終わりだよね? プチ打ち上げで、ランチはうちの店に行かない?」
「グラスマティネ?」
「そう。ランチ限定のビーフストロガノフ、食べたくない?」
「食べたい! あと、パフェも食べていいかな? パフェ! 打ち上げだし」
「プチだけどね」
「プチでも打ち上げは打ち上げだよ! パフェは正義だよ!」
よくわからない主張をされたが、小夜がかわいいからそれで構わない。
かわいいは正義。
などと言うつもりはないが、実際、小夜が何をしても許せてしまうような気がしている。
惚れた弱みとは、こういうことを言うのだろうか。
といっても、どちらかというと「弱み」ではなく「強み」だと思っていた。
小夜のことを好きな自分は、ほんの少しだけ好きになれそうな気がしている。
それだけ小夜の、好きな人がいるということの、影響力は大きい。
「じゃあ、パフェのためにもがんばって撮ろう」
小夜が目を輝かせ、いそいそと準備を始めた。
準備と言っても、場所の確保とビデオカメラの調整くらいなものでそんなに時間はかからない。
流空は流空で、撮影の時は毎回着ている黒いパーカーを羽織れば準備完了だ。
季節的にはすでに暑いくらいなのだが、パーカーの前を閉じてしまえば中のTシャツが違っていてもわからないし、撮影日がバラバラでも統一性が出せる。
毎回、衣装を揃えるよりもずっと楽なので、いい手だなと思っていた。
ラストシーンは、いよいよ『本音の撮れるカメラ』が実は願望を写していただけだとわかってしまうところだ。
最終的にどう落ち着けようかで意見が割れたが、小夜の希望通りラストはハッピーエンドの予定でいる。
物語の中でくらい、ご都合主義でもいいと流空も思う。
小夜の準備が整い、人がはけるのを待ってから始めようとしていた時だった。
「あれ? 渡会くん、電話鳴ってない?」
「ほんと?」
まとめて置いていた荷物を探ると、斜めがけバッグの中に入れたままにしてあったスマホが震動していた。
取り出したところで、ちょうど電話が切れる。
着信履歴は『父』となっていた。
電話をされるような用事も思い当たらずバッグの中に戻そうとすると、小夜が目聡くそれに気づいた。
「いいの?」
「切れちゃったから」
「そういう時は、かけ直すんだよ。ただし、セールスの電話以外ね」
小夜は両手を腰に当て、仁王立ちしている。
童顔な上に華奢なので、まるで小さい子が大人の真似事をしているみたいでつい笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「え、笑ってないよ?」
「笑ってた! 口を手で隠しても、目を見れば笑ってるのなんてバレバレだよ!」
ビシッと突きつけられた指を、にこりと笑って摑む。
さっきまでの威勢の良さはどこへやら。
それだけのことで、小夜は逃げ腰になって上目遣いに流空の様子を窺う。
小動物を相手にしているような気持ちになりながら、小夜の指を摑んだまま一歩距離を詰めた。
「小夜さんは、僕の目を見ただけで僕が笑ってるかどうかわかっちゃうんだ?」
「う、うん? わかるよ?」
「そんなによく見ててもらえて、すごく嬉しいな」
「そう……?」
「お礼って言ったら変だけど、ランチのあとデートもしない?」
「えっ!?」
わざと耳元で囁くように言った途端、小夜は一メートルくらい飛び退る。
その動作が猫が驚いた時のそれにそっくりで、堪えきれず吹き出した。
「小夜さんは面白いなー。うそうそ。ランチは打ち上げだからね。それだけで満足です」
「もー……渡会くんはいじめっこだなあ」
両手を上げて降参のポーズを取ると、ようやく小夜が警戒を解く。
半分くらい本気だったけれど、これはデートにこぎつけるまではもうちょっと時間がかかりそうだ。
もともと長期戦の構えでいるので焦りはしないが、少し残念だった。
もっと、僕を好きになってくれればいいのに。
「──え」
ふいに浮かんだ欲まる出しの考えに、思わず声が漏れた。
「どうかした?」
と小夜が不思議そうに首を傾げる。
「あ、ううん。なんでもない」
慌てて手を振って誤魔化したが、流空の心臓は早鐘を打っていた。
人を好きになるという感情は、思ったよりも制御が難しいようだ。
うっかりすると、両手からあふれてしまうものらしい。
「渡会くん……なんでまた笑ってるの?」
──きみのことが好きだから。
なんて正直に言ったら小夜を困らせるだけなので、勝手ににやけてしまう口元を手で隠した。
それだと笑っているのがばれてしまうのはもう証明済みなのに、我ながら芸がない。
「とりあえず、撮っちゃおう」
にやけ顔を隠すために手に持ったままだったスマホをバッグにしまおうと屈むと、しまわれるのを拒否するように電話が鳴った。
また、父からだ。
この幸せな気分を父との電話で壊されたくはなかった。
無視してしまいたい気分だったが、ばっちり小夜には気づかれていて「どうぞ」と電話に出るように促されてしまった。
仕方なく、小夜に断ってから電話に出る。
いつものように、ひと言で終わりますように。
心の中で祈ってから、通話ボタンを押した。
「もしもし、なんの用? 急ぎじゃないならあとで……」
願いは叶った。
父は一方的に事実を伝え、言うだけ言うと電話を切った。
早口になっていたから、いつもよりもさらに通話時間は短かった。
どうして父は、いつも流空のテンションを落とすのだろう。
この場合は母が……というべきかもしれないが。
先ほどまでの浮かれた気持ちは、もうどこにも残っていなかった。
何か考えようとするのに、何も思い浮かばなくて立ち尽くす。
頭の中が、真っ白だ。
「……渡会くん? どうかした?」
目の前で手を振られ、小夜の顔を見下ろした。
心配気に顔を曇らせている。
もしかして、自分はショックを受けているのだろうか。
こんなにも頭が真っ白なのも、ショックからなのか。
ショックを受けている、という事実がショックだった。
どうして僕が、ショックを受けなくちゃいけないんだ。
思考が麻痺したみたいに、上手く頭が回らない。
「母が……って言っても、小さい頃に出て行った人なんだけど」
「うん」
のろのろと説明し始めた自分の声が、他人のもののように頭の中に響いていた。
この感情のこもらない話し方は誰かに似ているなと思い、それが父だと気づいて乾いた笑いが漏れる。
似たくないと思っていたのに、所詮は流空も父と同じだった。
人を──家族を、思いやれない人間だった。
「その母が、亡くなったって」
小夜の目が、大きく見開かれる。
かと思うと、流空のバッグのチャックを閉め、しっかりと肩に担がせてから、腕を二度、確認するように軽く叩いた。
そしてすぐに腕を離すと、流空の目を覗き込む。
「行って。すぐに行って」
「でも今さら行っても……」
死んでしまったあとだ。
急いで駆けつけたところで何もできない。
そもそも、死ぬ前だったとしても、自分が駆けつけたかどうか怪しい。
いや、おそらくは死に際に間に合うと言われても、流空は走らなかっただろう。
だって、こんなにも心が渇いている。
「通夜に出るつもりはないから、急がなくても大丈夫だと思うよ」
葬式は明後日になるそうだ。
喪服なんてものは持っていないから、どこかで調達しなければならない。
さすがに高校生の時の制服はまずいだろう。
淡々と考えている流空の手に、あたたかいものが触れた。
見下ろすと、流空よりも小さい手がしっかりと流空の手を掴んでいる。
「いいから、早く」
ぎゅ、と強く手を握り込まれて、小夜と目が合った。
「でも、喪服がないし……」
言い訳をするように言うと、小夜は流空の手を掴んだまま、ゆっくり口を開く。
「なくても、大丈夫だから。病院かご自宅の住所は聞いたよね?」
覚えてる? と子供に確認するように聞かれた。
電話口で、父は病院の名前を言っていた気がする。
それを繰り返すと、小夜はすぐに自分のスマホで住所を検索してくれた。
「ここからなら、途中までバスで行ったほうが早いかも。バスには乗れる?」
「小夜さん、大丈夫だよ」
これまで、母は自分がいなくても問題なくやってきた。
むしろいないからこそ、充実した人生とやらを歩んでいたはずだ。
だから、最後の時もきっと──必要とされていない。
「僕が行ってもやることはないし、やっと晴れたんだから」
撮影をしてしまおう。
そう言いかけた流空を、小夜は一度きつく抱きしめた。
小さな小夜がそうすると、抱きついているようにしかならないのだが、とてもあたたかかった。
「晴れの日はまたくるよ、大丈夫。気にしてくれてありがとう。でも、行って。行ってくれないと、私一緒について行くって言い出すよ?」
それでもいい? 半ば本気の視線を向けられて、苦笑する。
好きな女の子に、そこまでしてもらうわけにはいかない。




