第二話 よろしくは、いりません
流空よりもよほど驚いたのだろう。
彼女は丸い目をさらに丸くして立ち竦んでいた。
櫻井とのやり取りのあと、流空は学生掲示板を見に行った。
そして、自分が細谷教授の映像表現実習の受講生として合格したことを知った。
定員枠三十名のみの、人気授業だ。
座学に飽き飽きした学生たちは、『実習』と名のつく授業に弱い。
そこにきて、細谷教授だ。
彼は単館系ながら、コアなファン層がつく映画監督でもある。
一度は彼の授業を受けてみたいという学生は、学科を問わず多い。
細谷教授目当てで入学する学生もいるくらいだ。
しかし残念ながら、この授業を受講する資格があるのは二年次からで、一般教養系の基礎科目、いわゆる座学類をすべて履修し終えた者のみ。
二年生でも、学科によってはかなり厳しい。
理論の上に実践は成り立つという教授の考え方のおかげで、毎期の受講生はほぼ三、四年が占めていた。
流空もその例外に漏れず、大学生活三年目にしてこの授業に申し込んだわけだが、約五倍もの確率に自分が受かるとは思っていなかった。
それでもあの日、受講者リストを見に行ったのは、何かの予感があったのかもしれない。
人気の授業というわりに、指定された教室は沍えなかった。
冷暖房の型は見るからに古いし、壁には寄せ書きのような落書きがある。
これで机が長机でなければ、高校生に逆戻りしたような気分になっただろう。
いや、高校というより、小学校のほうがより近いかもしれない。
三人まで使える長机には、ご丁寧にも受講生ひとりずつのフルネームを書いた紙が貼られていた。
長机は三列あり、それが後ろまで五つ並べられている。
名前シールは、真ん中を空けてふたりずつ貼られていた。
どうやら、名前順になっているらしい。
前のホワイトボードに目をやると、自分の名前の席につくようにと、でかでかと殴り書きされていた。
早めに教室に入っていた流空は、名前を順に確認するようなことはせず、一番最後に来るだろう場所に足を向けた。
──渡会。
『わ』で始まる苗字はそもそも多くないが、その中でもメジャーどころであろう『渡辺』よりもさらに後ろに来る自分の名前は、いつだって最後に呼ばれる。
慣れっこになっていたので気にもならないが、最後だからという理由でわりを食うことは案外ある。
いつか渡辺姓の友だちができたら、この不運について語り合いたいものだが、やはり面倒なのでおそらく声もかけないと思う。
三十名いっぱいいっぱいまで学生を受け入れたらしく、名前の紙は長机の最後列まで貼られていた。
教室の前、左から順番に始まって、廊下側の一番後ろの右端が最後尾。
そう悪い席でもない。
前期授業が終わるまでの半年間、ずっとこの座席ということもあり得るので、案外大事なことだ。
席を名前順にするくらいだから、おそらく細谷教授は出席もしっかりと取るタイプだろう。
とすると、一番最後に呼ばれる流空は、二十九人分の猶予が与えられていることになる。
しかも、席は後ろの扉から直通だ。
滅多に遅刻をすることはないが、こういった微妙な特典で助かることもある。
他の学生がちらほらと入って来るのを横目に眺めながら、流空は一番後ろのその席に肩から下ろしたトートバッグを置こうとした。
「え?」
流空のトートバッグに、白地に明るい花柄の鞄がぶつかる。
通路を通りがかりにぶつかったというわけではなく、明らかに自分の席に荷物を置こうとしたそれに。
流空の鞄よりも少しだけ早く置かれたそれは、名前の紙を完全に隠してしまっていた。
「席、間違えてますよ」
何を以てこの席に座ろうとしたのか。
自分もしっかりと名前シールを確認してはいなかったが、そんなことは棚に上げて言うと、すぐに花柄の鞄が持ち上げられる。
その鞄は膨らんでいるわけでもないのに、ずしりと重そうだった。
「ごめんなさい! いつも最後だからてっ──……」
随分と涼しげで通る声だと思った。
自分が映像学科だったら、ナレーションでも頼みたくなるくらいに、いい声だ。
その声が消音ボタンでも押したみたいに途中で消えたので、鞄から持ち主へと視線を上げた。
捜していた野良猫を、見つけた。
中庭で、流空に強い視線を向けていたあの子だ。
すぐ近くで見ると、華奢さが際立つ。
流空の身長が約百八十と大きいこともあるが、頭ひとつ分は小さい。
今日はまっすぐな髪をポニーテールより少し低い位置に結んでいた。
大きな瞳を強調しないような控えめな化粧は、好感が持てる。
白い頰に、さっと赤みが差す。
少し、ぶしつけに見つめ過ぎたようだ。
体を少しずらし、ひとつ前の席に貼られた名前シールを見る。
──鷲尾小夜。
なるほど。
いつも最後だというのは、なんとなくわかる。渡辺がいたら、負けるけど。
しかし、名前を見てもピンとこなかった。
中々インパクトのある名前だけに、自己紹介をした仲だったなら覚えているはずだ。
名前だけ知らずに顔を合わせた仲、ということもありえるが、生憎とあんなにまっすぐ見つめてくる顔見知りにも心当たりがない。
結局あの視線の理由はわからないままだったけれど、これから同じ授業に出るのだから追い追い聞いていけばいい。
席も前と後ろなのだから、話す機会も増えるだろう。
「これからよろしく、鷲尾さん」
慣れた愛想笑いに、口端を引き上げる。
相手からもそれなりの笑顔を向けられるものとして、頭の中でその次の返事を組み立てていた。
ある意味、奇跡的な再会を果たしたふたりなのだ。
ここから、なんらかのドラマが始まっても不思議はない。
そう、思っていたのだが──。
「よろしくは、いりません」
静かな、けれどはっきりと耳に届いた凜とした声によって、始まりの糸はあっさりと断ち切られてしまった。