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きみを殺すための5つのテスト  作者: 狐塚冬里
第三章 おもちゃ箱の底には
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第六話 後悔はたぶん、しない

 オレンジ色の光が差し込む夕暮れのカフェには、優しく甘美なバイオリンの音色が響いている。

 シューベルト作曲、白鳥の歌より第四曲、セレナーデ。

 元々は恋人の窓の下に立って愛を訴える歌という意味があり、日本では夜曲や──小夜曲、とも言われる。


 細谷教授の授業が終わったあと、何事もなかったかのように帰ろうとする小夜を捕まえた。

 お互い四限まで授業が入っていたので、終わってから落ち合うことを約束した。

 構内ではいつ映像表現実習を履修している学生に見られるかわからないので、バイト先のカフェへと誘った。

 それは近くで静かに話せる場所を他に知らなかったからに過ぎない。

 断じて、マスターに小夜を連れて来いと言われたことを実行したわけではなかった。


 マスターはバイトでもないのに店に来た流空を見て首を傾げ、すぐ後ろに小夜がいるのを見つけると満面の笑みを浮かべた。

 その笑顔を見た瞬間、店選びに失敗したと思ったが、窓際の一番いい席に通してもらっておいて出るとも言えない。

 でも、さすがにセレナーデを流すのはやり過ぎだ。

 自慢のコーヒーを運んで来たマスターに抗議の視線を送ってみたものの、ウィンクで返され早々と戦意を喪失した。

 小夜が店内に流れている音楽まで気にするとも思えないので、この際マスターの視線くらいは無視することにする。


「それで、どうしてあんなこと言ったの?」


 深みのあるコーヒーで喉を湿らせてから、口を開いた。

 幾分、責める色が出てしまうのは仕方がないだろう。

 小夜も覚悟はしていたらしく、飲もうとしていたアイスティーのグラスをテーブルに戻し、その手を自分の膝の上に置いた。

 そうしてから深く頭を下げようとしたので、慌てて止める。


「待った。そのまま頭下げるとたぶん、グラス倒すよ」


 カフェ・グラスマティネのグラスは背が高い上に、そこに長いストローが刺さっている。

 グラスまではいかなくとも、勢いよく頭を下げるとストローくらいは額に刺さっていたに違いない。

 小夜がドジなことなんて、チェック済みだ。

 流空はアイスティーのグラスを少し脇にずらしてやり、どうぞと先を促した。


「……ごめんなさい」


 仕切り直しの謝罪に、小さく吐息をつく。


「それと、ありがとう」

「え?」

「グラス。倒しちゃってたら、もったいなかったから」


 そこなんだ、という呟きに小夜は他に何か、と言わんばかりの顔で頷いた。

 どうにも、やりづらい。


「謝ってもらいたいわけじゃないよ。ただ、どうして噓ついたのかなって」


 あの時点で、流空と小夜は意見をひとつになんてできていなかった。

 それどころか、話し合いを放棄すらしていた。

 それを訂正できなかった時点で、流空にも小夜を責める権利はないと思っている。


 ただ、知りたかった。


 あと一組と沸いていた教室で手を挙げるのは、それなりに勇気がいる。

 見ている限り、小夜はあまり注目を集めるのが好きではない雰囲気があるのに、よくやったなと思うのだ。

 意見がまとまっていたとしても、手を挙げるのは流空のほうだろうと勝手に思っていたからかもしれない。

 どうして、と思っていたが、ふと小夜が購買部に行った時のことを思い出した。

 あの時、小夜は断りきれずにレジを手伝っていた。

 他にも、学食や試写室で、人にばかり席を譲っていて座れずにいた。

 みんなのために、手を挙げた。

 そう考えると、実に小夜らしい選択のように思えた。


 あと一組。

 その一組さえ出れば、多くの学生が不満を持ったペアを解消でき、前期の課題に前向きな気持ちで取り組むことができる。

 ましてや、二組目に手を挙げたのは野本と、小夜の友だちである水城だ。

 野本たちは議論の末に意見をひとつにできたからだが、結果として生贄感は拭えない。

 それを目の当たりにしたら、小夜だったら自ら名乗り出ても不思議はない気がしてきた。

 ただしそれには、流空という道連れがいたのだが。

 だから、ごめんなさいと言われたのかもしれない。


 カラン、とアイスティーの氷が溶け、涼しげな音を鳴らした。

 溶けてしまった分の水をかき混ぜ紅茶に馴染ませながら、ようやく小夜が口を開く。


「渡会くんの考えた企画のほうで進めるなら、問題ないんじゃないかと思ったの」

「僕のって……」

「うん。本音の撮れるカメラ」


 確かにドキュメンタリーにするところから考え直そうとは言ったが、何も自分の案を採用してほしかったわけではない。

 その場しのぎで作ったフラッシュアイディアだけに、予算やスケジュールといったものはまるで計算していなかった。

 問題ないどころか、大ありだと思う。


 小夜が一体あれのどこを気に入ったのかはわからないが、確かに話した時から反応はよかった。

 むしろ、とことんやり合おうと言ったくせに、小夜こそドキュメンタリーという枠組みになんてこだわっていないように見えるほどに。

 理由を聞いてみようかとも思ったが、やめた。

 そこに何かの意味があったとしても、踏み込むべきだとは思えない。

 またあの微妙な空気になるのは御免だったし、さっきからマスターの視線が気になっているのもある。


「鷲尾さんがそれでいいなら、僕はいいけど」


 小夜の取った行動が謎だっただけで、一緒にやっていくこと自体に不満はない。

 流空としては歓迎すべき結果ですらある。

 それに、小夜が誰かのために犠牲的精神で手を挙げたわけではないこともわかって、ほっとしていた。

 誰かのため、というのは自己犠牲の上に成り立つべきものではないと思うから。


「ごめんなさい」


 もう一度頭を下げられ、もういいよと手を軽く振る。


「あの時はびっくりしちゃったけど、理由がわかったから大丈夫。それに、鷲尾さんと組めたのは嬉しいと思ってたし」


 小夜が大きな目を、さらに大きくして流空を見た。

 大したことを言ったつもりもなかっただけに、その反応に戸惑う。


 言うべきか、言わざるべきか。


 瞳が迷うように揺れた。

 きゅっと引き結ばれた唇に対して、小夜の目は語りたがっていた。

 言ってくれればいいのに、と思う。

 たぶん流空は、小夜が言おうとしていることを聞いても、傷ついたりしないし、困りもしない。

 そんな予感がしていた。


「どうかした?」


 言っていいよ、の合図のつもりで笑顔を向ける。

 伝わるかはわからなかったけれど、言い辛い雰囲気にはならなかったはずだ。

 小夜はまだ迷っているようだったが、覚悟ができたように一度頷いた。


「……私も、そうなの」


 固い声は、流空がぬか喜びするような隙を与えない。


「渡会くんと組むってわかった時、よかったって思った。渡会くんにはもう一度、カメラの前に立ちたくないって言ったことがあったから、映画を撮るにしても被写体としてはやりたくないって言いやすいと思って、それで……」

「つまり、もう一度ペアを組み直すとなると、新しい相手にまた強く言わなくちゃいけないのがいやで、僕とのペアのままいけるように手を挙げた。……で当たってる?」

「どうして……」


 まだそこまでは言っていない。

 小夜の目が、呆然と流空を見る。

 少し考えればわかることだ。流空の企画は粘るほどいいものではない。

 小夜は人前で目立つ行動を取りたくない。

 でもそれ以上に、カメラの前に立ちたくなかった。

 新しく組んだ相手が、いやだと言って簡単に聞き入れてくれるタイプだとは限らない。

 それを説得するのはきっと疲れる。


「勘はいいほうなんだ。でも、安心した」

「安心……? がっかりじゃなくて?」

「安心。だって、ペアでいたいって粘られるほどあの企画を買われてたら、荷が重いなって思ってたから」

「でも私、まだ計算してるの!」


 勢いよく、小夜がその場で立ち上がる。

 その拍子に腰をテーブルにぶつけ、アイスティーのグラスが倒れた。


「わっ!」


 テーブルから転げ落ちたグラスを、身を乗り出して受け止める。

 当然、手はアイスティーと氷でびしょ濡れになった。

 冷たいは冷たいけれど、グラスが割れるよりよほどいい。


「ご、ごめんなさい!」


 小夜が慌ててバッグからハンカチを取り出し、流空の手を拭こうとした。

 よりにもよって白いハンカチだったので、大きく手を後ろに引いてそれを避ける。


「大丈夫だから、ハンカチしまって。鷲尾さんは濡れなかった?」


 ハンカチと同じく白いスカートに視線をやったが、どうやら無事らしい。

 マスター、とカウンターを振り返りながら呼ぶと、


「はいはい。手はこれで拭いてね」


 待ち構えていたように布巾を渡された。


「すみません、汚してしまって……」

「大丈夫ですよ。渡会くんがきれいにしてくれるから」

「え……」

「はい、モップ」


 マスターは流空にモップを渡すと、中身のなくなったグラスだけ持ってさっさと下がっていってしまった。

 日は客なのにとぶつぶつ言いながら、使い慣れたモップで床を拭う。


「ごめんね。私が溢したんだから、私が拭くよ」


 小夜がすぐに手伝いを買って出てくれたが、それは丁重にお断りした。

 床には溶けかけの氷が散らばっていたし、小夜に任せたら滑って転びかねない。

 それくらい、小夜の運動神経を流空は信用していなかった。

 床を掃除し終えてモップを戻しに行くと、マスターがすぐに受け取りに出迎えてくれる。


「お疲れ様。アイスティー、新しいの作ってあるから持って行ってね」


 礼を言ってアイスティーを手に戻ると、小夜は酷く恐縮していた。

 客が飲み物や食べ物を落として食べられなくしてしまった場合、大抵の店では新しい物を出す。

 この店の店員でもある流空の中では当たり前になってしまっていた感覚だが、どうやら小夜はそうではないらしい。


 またひとつ、小夜の中にいいなと思うところを見つけた。


「それで、話の続き聞いてもいい?」


 まだ、計算してることがある。

 勢い余ってアイスティーを倒すくらいだ

 勢いがなければ言えないようなことだったのだろう。

 案の定、小夜は情けない顔をする。


「……計算を……してまして……」

「なんで敬語?」

「なんとなく……」


 あまりの逃げ腰が、逆に面白い。


「言ってみてよ」


 促す声がちょっと、笑ってしまった。


「……渡会くんの企画を通す代わりに、私は撮影担当にしてもらおうって……計算したの」


 徐々に小さくなる語尾のせいで、少し前のめりになる。


「そういう意味では、私にとって反対の意見の人のほうが有り難かったっていうか……」

「交渉しやすいもんね」

「う……。ごめんなさい……」


 ただでさえ小さい身体を、肩をすぼめてさらに小さくする。

 端から見たら、これはどういう状況に見えるのだろう。

 ひょっとすると、流空がいじめているように見えるのではないだろうか。

 そっと背後を伺うと、思った通りマスターが仲裁に入ろうとしているのを、厨房から伸びている太い腕が捕まえてくれていた。

 厨房から顔を出さないポリシーを守りつつマスターを止めてくれた槇に、見えないだろうが頭を下げてから前へと向き直る。


「いいと思うよ、全然」


 計算というとずる賢い印象があるが、小夜のは単純に交渉だと思う。

 映像を撮る技術はあるのだから、きちんと条件としても成り立っている。

 それを引け目に感じるということは、それだけ小夜はカメラの前に立ちたくないということだろう。

 自分がこれだけいやなことを、人に押しつけようとしている。

 そのための計算をしているから、後ろめたい。


 けれどそれは小夜にとってであり、誰にでも当てはまるものではない。

 そもそもの考え方が、主観的なのだろう。

 人から一歩引いて、自分からすら一歩引いている流空からすると、新鮮だった。


「あれ、女の子を主役に考えてたけど、詳細を詰めてあるわけじゃないから変えたって問題ないし。女の子のほうが画面映えするかなって思ってたくらい」


 あっさりと流空が受け入れたからか、小夜は三秒くらいぽかんと流空の顔を見つめていた。


「いいの……?」

「いいよ。あ、でも鷲尾さんって声も入るのいや? いい声してるから、ナレーションしてもらったら惹きになると思うんだけど」

「え、ナレーション? 声くらいなら別に……」


 まだ把握しきれていないような顔をしていた小夜だったが、「あ!」と顔を輝かせた。何かのスイッチが入ったらしい。


「それなら、主役はやっぱり女の子にして、視点をぜんぶカメラ越しにしたらどうかな?」

「女の子が見てる先の物だけ映すってこと?」

「そう! そうしたら、私は写らないけど声でお手伝いできると思う。本音を見るっていうのが主体だから、相手は女の子に近しい存在にしたほうがいいと思うのね? 家族ものでもいいと思うんだけど、役者さんを頼むのは大変だし、短編にもきっと入り切らない。だから、ベタだけど恋愛ものがいいと思うの」

「ベタなくらいなほうが、作り込みはしやすいかもしれないね。でも恋愛ものだとしたらその相手って……」

「そこは……その、渡会くんに……」

「だよね」


 自分は出たくないけれど、流空には出てほしい。

 という主張はしづらいらしく、小夜がちらちらと窺うような視線を寄越す。

 縮こまっているので意図せずに上目遣いになっているそれは、小動物を見ているようでちょっとかわいかった。


 小夜はやはり、主観で物事を捉えるタイプらしい。

 流空は小夜ほど撮られることに対して、ハードルがない。

 これまでも他学科の学生からモデルや被写体を頼まれて受けたことがあった。

 さすがに役者は断ってきたけれど、自分の撮るものならば仕方ないだろう。


「僕で務まるならいいよ」

「いいの!?」


 小夜のテンションが跳ね上がる。

 見た目だけならおとなしそうな子なのに、見ている時間が長くなればなるほど、印象は変わった。


「いいよ。撮影の時は鷲尾さんに大分助けてもらうことになると思うし、それくらいはしないとね」

「それくらいって、すごいことだよっ?」


 小夜にとってはすごくても、流空にとってはそうでもない。

 けれどそれは、敢えて言うこともないことだ。

 言ってしまえば小夜の気は楽になるかもしれないが、その分交渉材料としての価値が下がる。


 計算とは、こういうことを言うのだと苦笑した。


「大丈夫、頑張るから。その代わりじゃないけど、色々教えて」

「……うん、もちろんだよ」


 心底安堵したような小夜の顔に、少しだけ罪悪感が湧く。

 でもその罪悪感と引き替えに、流空は小夜というパートナーを手に入れた。



 後悔はたぶん、しない。


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