第二話 空白のアルバム
みんながはしゃぐ中、流空だけがコップに入ったオレンジジュースをじっと見下ろしていた。
それに気を使ったわけでもないだろうが、みきの母親がアルバムを見せてあげると言い出した。
女子はすぐさま「見たい!」と立ち上がる。
男子はそんなに興味はないけれど、この場は乗っておいたほうがいいだろうと、遅れて「見たい見たい」と立ち上がった。
みきは、クラスでも人気一位のかわいい子だった。
みき自身は恥ずかしそうにしていたけれど、あれはまんざらでもなかったのだと思う。
そうでなければ、一枚ずつ写真の説明なんてしなかったはずだ。
やだママ、恥ずかしい。
そんなことないわよ、どれもかわいく撮れてるわ。
小学二年生にして、みきのアルバムはすでに十冊を越えていた。
それが多いのか少ないのかは人の主観によるところだと思うが、流空からすると衝撃の数だった。
分厚く重いアルバムの中には、丁寧にラベリングをされた写真が並べられていた。
それも、特に写りのいいものをプリントアウトしただけだという。
では、全体量は一体どのくらいになるのか。
この頃、流空は自分のアルバムというものを見たことがなかった。
そもそも、アルバムというものの存在をこの時初めて知った。
写真自体はさすがに見たことがあったけれど、それをまとめて貼っておくという発想がなかった。
アルバムの中で赤ん坊だったみきは、ページを捲るにつれて成長していく。
目に見えないと思っていた時間がこんな形で見えるのかと、流空は感動すらしていた。
その感動は特別に大きいアイスケーキが出されてもなかなか冷めず、流空の分のケーキだけ食べる頃には半分溶けていたほどだった。
誕生会は、夕方前には終わった。
家に飛んで帰ってきた途端アルバムを見せてとせがむ息子に、母はあからさまに面倒臭そうな顔をしていたと思う。
どんな反応をされたかまでは覚えていないのに、面倒がられたという感覚は残っていた。
「現像してあるのはこれだけよ」
どうにか出してもらったアルバムは、一冊だけだった。
それも、半分以上が空っぽのまま、ぺたんこのアルバム。
すでに期待感は消えていたが、一ページ目を捲ってさらに落胆した。
みきの家で見たような丁寧なラベルもなければ、日付すらまともに書かれていない。
一枚目が病院着の少し若い母に抱かれた赤ん坊の写真。
二枚目が病院のベッドらしきところに寝かされている赤ん坊の写真。
三枚目がやはり少し若い父に抱かれた赤ん坊の写真。
くしゃくしゃの顔の赤ん坊の写真が続く。
これが自分だとはとても思えなかった。
ページを捲るにつれ、赤ん坊は少しずつ人間に近くなってくる。
髪が増え、目が何かを追いかける。
手間をかけてもらってはいなかったが、写真を見るうちに安心感みたいなものが増していった。
ちゃんと自分も、写真を撮ってもらっていた。見て、もらっていた。
羨ましがる必要なんて、なかったんだ。
ほっとしながらページを捲っていた手が、次のページで止まる。
あれ、と元のページに戻ると、そこにはまだ幼稚園にも入っていない頃の流空の姿がある。
そこから先のページはなかった。
空、空、空。空っぽだ。
一番最後に入れられている写真は、流空が私立の有名幼稚園を受験した日に撮ったものだった。
この日のために用意された一張羅を着て、ぼんやりとした色合いのスーツを着た母と写っている。
最後を飾るのに相応しい写真なんかじゃなかった。
どうしてこの写真をアルバムに入れたのか、不思議でならない。
それくらい、存在してはならない写真だった。
もう一度、ページを捲ってみる。
何度捲っても、アルバムは流空が失敗した日の記録で止まっていた。
ぽたり、とアルバムの上に水滴が落ちる。
自分が泣いているのだと気づいても、流空は顔を拭わなかった。
それよりも先に、失敗をなかったことにするのに忙しくて。
アルバムのシートを剥がし、写真を抜き出すときょろきょろと辺りを見回す。
母が映っているので破くことは怖くてできず、どこか隠せる場所がほしかった。
悩んだ結果、おもちゃ箱の一番下へと入れ込んだ。
上からおもちゃを乗せ、蓋をすることでなかったことにしたかった。
神さま。
これからずっといい子にします。
だから、この写真をなかったことにしてください。
思えば、これが流空が生まれて初めてした神頼みだった。
当然、神様は無視をした。
過去を変えることなんて、誰にもできない。
薄々は感じていたのだ。父と母の会話が減り、流空に対しても笑顔を向けてくれることが減ったのは、この写真のせいではないのかと。
正確には、この写真を撮ったあと、流空が幼稚園の受験にも小学校の受験にも失敗したせい。
元々、顔に出ることが少ない父だったが、受験に落ちたという知らせを受けてからは一層酷くなった。
母は「次は大丈夫よ」と励ましてくれたが、小学校受験に失敗した時には「私立かどうかが問題じゃないのよ」と「次」を期待してくれなくなった。
がっかりさせてしまった。
ふたりとも、流空が、自分たちの子供が、思っていたよりも優秀ではないことを知り、諦めてしまった。
続いていないアルバムが、流空への期待も興味もなくなった証のように思えた。
アルバムを見たいだなんて言わなければよかった。
流空は開いたままの空っぽのアルバムを、滲んだ視界で睨みつける。
受験に失敗したからといって、人生はそこで終わらない。
それなのに、そこから先の道は拒否でもされるかのように何もなかった。
空白の続くページを捲るのは苦痛でしかなく、流空はそこから一気に最後のページへと飛んだ。
当然そこにもなんの写真もないと思っていたのに、ページを捲った勢いで一枚の写真が手元に滑り落ちる。
他のものとは違う、正方形をした写真。
あの時はわからなかったが、ポラロイドカメラで撮られたものだったのだと思う。
アルバムに入れられることもなく、間違って入ってしまったかのようなそれを手に取った。
「これ、おかあさん……?」
大きなツバのついた帽子を両手で押さえ、照れ臭そうに微笑んでいる女の人。
そんな顔で笑う母を、流空は見たことがなかった。
流空の知っている母は不機嫌そうに溜息をついているか、近所の人相手に必要以上の愛想笑いをしているかだ。
母の幸せそうな笑顔に、目を引きつけられた。
さっきまで流れていた涙が止まり、胸の鼓動が早くなる。
秘密を、知ってしまったような気持ちだ。
これは誰が撮った写真なのだろう。
やはり、父だろうか?
母はとても若く見える。
どのくらい前の写真なのだろう。
どうして、おかあさんは笑ってるの?
写真の裏にヒントでも書いていないかと捲ろうとした時、廊下を歩いてくる母の足音が聞こえた。
この写真を見ていたことを知られてはいけないような気がして、流空は慌ててアルバムを閉じた。
本当は、もっとずっと眺めていたかった。
「流空、寝るならベッドに……」
部屋に入って来た母は、流空が起きているのを見ると首を傾げた。
アルバムを見るにしては時間がかかりすぎていたので、てっきり眠ってしまっているのだと思ったらしい。
閉じたアルバムを見て母が何か言う前に、流空は立ち上がっていた。
「おかあさん、ぼくカメラがほしい!」
口を突いて出た言葉に母も驚いただろうが、流空も驚いていた。
あまり、これが欲しい、あれが欲しいと我侭を言うタイプでもなかったので、余計に珍しかったのだろう。
母は考えるように、流空とアルバムを交互に見つめた。
「どんなカメラが欲しいの?」
その口調は、少しだけ優しかった気がする。
その日のうちに、母は古いデジカメを流空にくれた。
父の物らしかった。




