第一話 どうしていつもそうなの?
桜の花びらがひらひらと舞い落ちる大学の中庭に、小気味良い音が響き渡った。
「いったー……」
言うほど痛くはないのだが、やられた身としてはポーズも必要かと申し訳程度に熱を持った頰を手で押さえる。
名演技でもなかったと思うが、渡会流空の頰にフルスイングした恋人──正確には元恋人の櫻井は、怯んだように右手を胸元に引き寄せる。その爪が念入りに、ど派手にコーティングされているのを見て、平手打ち程度でよかったと胸を撫で下ろした。
あの爪にやられていたら、頰の肉が抉られていたに違いない。
突如始まった痴話喧嘩に、その場にいた学生たちが好奇の目を向ける。刺激に飢えた学生たちは、野次馬根性を隠したりはしない。誰だ誰だ。……なんだ、またあいつか。
流空の身に起こったこの手の騒動は、初めてではない。
大学の入学式に始まり流空が三回生になる現在に至るまで、何度となく似たような光景を見せられてきた在校生たちは慣れたもので、さっさとサークル勧誘の仕事へと戻っていった。
取り残された形の新入生たちは、四方から渡されるチラシの山を避けられもせず、腕の中に溜めていく。新しい環境で始まった物珍しい出来事を見るべきかどうか判断できないのだろう。そのせいで、各校舎へと続く道があちこちで渋滞を起こしていた。
こんな揉め事を見学していても、なんの役にも立ちはしない。よい子はさっさとお帰りください。
頭の中で新入生をほうきで掃き出すところを想像していると、
「どうしていつもそうなの?」
櫻井が声を震わせた。
櫻井との付き合いは約半月。言ってしまえば付き合い立てのレベルだ。
いつもと言われるほど自分を理解してもらった覚えもなければ、理解した覚えもない。
「そう、って言われても……ね」
まだ少し痛む頰から手を離し、流空はこっそりと溜息をつく。
これはしばらく、解放してもらえそうにない。
こんなことなら、授業の受講者リストの確認なんて誰かに頼めばよかった。
頼むほうが面倒だから自分で足を運んだというのに、この状況はそれよりもずっと面倒臭い。
「ちゃんと説明して」
櫻井は感情がすっかり昂っているらしく、周りの視線も気にせずにこの一幕を演じ続けていた。
それとも、注目されることで何か事態が好転するとでも思っているのだろうか。
「説明するも何も、別れたいって言ったのは櫻井さんでしょ」
つい、声に面倒臭さが滲み出た。
女の子というのは普段びっくりするくらい鈍いのに、こういうところだけは、やけに鋭い。
「酷い! やっぱり、私のこと好きじゃなかったんだ……」
案の定、櫻井は敏感に反応してあの爪をきつく手の中に握り込んだ。
爪で手のひらを傷つけなければいいけど、と余計な心配をしてしまう。
ここで、「そんなことないよ。ちゃんと好きだよ。だけど、別れたいって言われたのが悲しくて」と流空が言えば、おそらく悲劇は一転して喜劇へと変わる。
「別れたい」は「別れたくない」の同義語。
「私のこと好きじゃないでしょ」は「好きって言って」と同じ。
櫻井が欲しがっている言葉はわかっていた。
どういう声のトーンで、どんな顔でそれを言えば、櫻井が満足するのかも。
でも、わかったところでそれを言うか言わないかは流空の自由だ。
「やっぱり、って?」
一応礼儀かな、と聞き返した。
あまり明確な答えは期待していなかったのだけれど、意外にも櫻井の返答は具体的だった。
「私のこと……一回も撮ってくれたことないし」
なるほど。と思わず呟きそうになる。
流空の鞄の中には大抵、愛用の一眼レフカメラが入っている。
写真学科在籍なこともあるが、興味を惹かれたものを好きな時に取れるように持ち歩いている。
無意識に撮っていることもあった。
被写体は、圧倒的に人間が多い。
それなのに、櫻井にカメラを向けたことがないということは、写真に収めようという興味がわかなかったということになる。
櫻井にとっては酷い話だろうが、別れたくないという執着心がまったく湧かないことに、妙に納得してしまった。
流空は、見た目通り性格もさらさらしているとよく言われる。
人の容姿を説明するのに適した表現だとは思わないが、髪や瞳の色素が薄く、端正だと褒められることもある顔立ちを「さらさら」と女子は言いたがった。
言ったほうは褒めているつもりなのかもしれないが、言われたほうとしては「淡泊で執着心が薄い」というようにしか聞こえない。
しかしそれはその通りで、流空には来る者拒まず、去る者追わずなところがあった。
つまり、別れを切り出す恋人を引き留めるだけの熱意が持てないのだ。
それに、流空の外面だけを見て声をかけてくる女の子は多かった。
母が家を捨てて出て行った中学生の頃からは、特に。
母親不在の家に流空自身はさしたる変化を感じていなかったのに、周囲からは翳があるところがいいと評され、勝手に株が上がった。
それは単純に、食生活が不健全になってやつれただけだと思うのだが。
思春期にモテるきっかけをくれた、という意味では母に感謝すべきかもしれない。
流空からアピールをしなくても、甲斐甲斐しく世話を焼こうとする女の子たちがいる。
櫻井もそんな子のひとりだった。
僕のどこが好きなの?
かっこいいところ──。
抽象的過ぎて、流空には理解できない。
恋人のためなら多少の噓も方便だと思うけれど、この、面倒で意味のない、上っ面だけの言葉で関係を修復し続けていくのかと思うとうんざりしてしまう。
過度の期待は、何も生まない。
何も言い返さない流空に、櫻井が苛立ちを募らせていくのがわかる。
櫻井からは、春休みに入る前に告白された。
見ず知らずの子だったけれど「いいよ」と恋人になることを了承した。
人間なんて大多数が知らない人間なのだから、それが交際を断る理由にはならない。
ちょうど春休みだったから、それなりの回数デートをした。
物語の中のカップルたちのように盛り上がることもなかったが、逆に揉めることもなかった。
それが今朝になって、この平手打ちだ。
大体、「愛されてる気がしないから別れたい」という櫻井の言い分も随分勝手なものだと思う。
ほんの数週間付き合っただけで熱烈に愛せるのならば、元々自分から告白していただろう。
けれど、あと一年付き合えば好きになっていたかと聞かれれば、よくわからない。
そもそも、どこまでがただの好意で、どこからが愛情なのか。
明確な値が決まっているのなら教えてほしい。
「私、謝らないから」
強気な口調のわりに、櫻井の目は伏せられていた。
どうやら頭に昇った血が下がり、周りの目が気になってきたらしい。
別れたくないと縋られないことは不満でも、人前で恥をさらしたくはない。
そんな程度の茶番劇。
ごめんね。
いくら期待されても、僕からきみを引き留めるための甘い言葉は出てこない。
流空はなんの感慨もなしに頷いた。
「うん」
特に、謝ってほしいという気はない。
叩かれたことも、別れを切り出されたことも。
どうやっても、流空と櫻井のテンションの差は埋まらない。
そのことにようやく気づいたらしい櫻井が、最後のエネルギーを使い果たすように怒鳴り声を上げた。
「もういい!」
凶器にもなりそうなヒールの音を響かせ、足早に立ち去る。
ギャラリーはひとり残された流空に注目していたが、これといって面白いことがないとわかると、すぐに視線は離れていった。
溜息を飲み込んで見上げた空は、よく晴れていた。
雲も、飛行機も、何もないただの青。
自分と同じように空っぽなそれに、目を眇める。
そこに、櫻井の顔を思い浮かべてみようとしたが、何も出てこなかった。
ついさっきまで顔を合わせていたというのに、思い出そうとしても曖昧にしか思い出せない。
こんな調子だから、叩かれたのだろう。
すっかりやる気を失っていたが、三十分かけて大学まで来たのに本来の目的を果たさずに帰るのも癪だ。
にぎやかさを取り戻している中庭を、ゆっくりと歩き始める。
もう誰も、流空のことなんて気にしていない。
そう、思っていた。
春特有の強い風が吹き、門から構内へと植えられた桜が、これでもかとばかりに花びらを散らす。
見事な桜吹雪に目を取られていると、ふと視線を感じた。
一体、誰がまだ自分を見ているのか。
ぐるりと構内を見回すと、まっすぐにこちらを見つめる瞳にぶつかった。
流空を見ていたのは、見かけたことのない女の子だった。
四号館へと続く道の途中にある低い階段の上から、身じろぎもせずに流空のことを見ている。
肩の下まである癖のない長い髪に、桜の花びらが引っかかっていた。
つややかな黒髪には、桜の淡いピンク色がよく映える。
美形の基準は人によるとは思うが、整った顔をしているように見える。
服装は清楚系。
目立たないベーシックなトレンチコートを着ていた。
裾から少しだけ覗いているスカートの色は白。
良くも悪くも目立たない。
そう意識して作られた雰囲気が、逆に浮いていた。
たぶん、大きな瞳のせいだろう。
言いたいことはあるけど、決して言わないと決めた多弁な瞳。
お互い、身じろぎひとつしなかった。
街中でふいに、野良猫と目を合わせてしまった感じに似ている。
無意識のうちに鞄に手を伸ばし、カメラを取り出していた。
しかし、シャッターは切り損ねた。
カメラが金縛りを解くアイテムだったみたいに、彼女はカメラを目にした途端、流空に背を向ける。
そうして一度動き出すと、迷いのない足取りで四号館のほうへ行ってしまった。
背中を撮ろうと思えば撮れたけれど、指は動かない。
撮るなら、あの瞳を撮らないと意味がない気がして。
どこの学科の子だろう。
見覚えがないので、おそらくは流空の在籍する写真学科ではない。
新入生なら同じ学科という可能性もあるが、服装からいってあれは一年以上大学にいる子だと感じた。
新入生はやはりどこか、まだ高校生の殻をかぶっているから雰囲気でわかる。
その証拠に、小柄で童顔に見えた彼女に、サークル勧誘の声をかける学生はいなかった。
どうして、あんなにもまっすぐこちらを見ていたのだろう。
別れ話の派手なショーは、とっくに終わっていたのに。
流空への抗議の視線ならまだわかる。
けれど彼女の視線には、もっと違う何かが含まれているようにも感じた。
興味を惹かれてしばらく目で追ったものの、彼女の小さな背中はすぐに新入生歓迎ムードの浮かれた在校生たちの中に紛れて、見えなくなった。
流空の通う美術大学は、いわゆるマンモス大学ではないが、それなりの人数の学生がいる。
写真学科だけでも、一学年に九十名弱。
映像学科、デザイン学科、建築学科などを足せば、相当な人数になる。
その中から、一目見ただけの子を捜そうと思っても、それはかなり難しい。
さらに流空の記憶が時間が経つにつれてあやふやになっているとなると、再び彼女に出会う確率なんてないに等しいように思えた。
どうせ、見つかりっこない。
とすぐに諦めて、翌日には彼女のことを忘れかけていた。
その程度の興味だった。
──その彼女が、目の前にいる。