第六話 涙にはティッシュ
細谷義允と聞いてすぐに映画監督だとわかる人は、映画クラスタくらいなものだろう。
大抵の人には、『美しき夢人』の監督だと言ったほうが通りがいい。
『美しき夢人』は細谷教授の出世作にして、現在も彼の作品の中で最も有名な映画だ。
一時間強のアニメーション映画で、繊細なピアノ音楽が印象に強く残る抽象的な物語。
簡単に言ってしまうと、夢に出てくる美しい少女を捜すために少年が夢の世界に入り冒険をするが、その少年自体もまた誰かの夢だったというマトリョーシカのような構造の話だ。
胡蝶の夢を人に置き換えた物語と言ってもいい。
『人はどうして眠らなければならないのですか?』
これは少女に会うために眠り続け、眠りというものに疲弊した少年が言う台詞だ。
眠るという行為は生きることを表しているなどと解釈され、人間社会の縮図がどうのと講評されることも多い作品だが、流空からするとあれはただ美しいだけの物語だと思う。
夢は夢だと語る、どこまでも美しくけれど残酷な物語。
小難しいことなんて考えずに、美しいものは美しいでいいのではないかと思うけれど、その感想を誰かに伝えたことはない。
細谷教授を間近で見た時の第一印象は、思っていたよりもでかい、だった。
テレビや雑誌で姿を見たことがあったおかげで、驚きは少なくて済んだ。
彫りのやや深い精悍な顔立ちに鋭い目の威圧感だけではなく、彼は物言いも上からで学生たちをはね除ける。
どうやったらこの人からあの繊細な映画が生まれるのか、たまに不思議になる。
しばらく、スクリーンは白いままだった。
けれどそこにピアノの旋律が聞こえ始めると、一部の学生がざわついた。
これは、『美しき夢人』の続編ではないのか。
流空もそれを期待した。
また、あの脆い均衡の上に成り立つような物語が観られるのだとばかり、期待して。
その期待はある意味叶えられ、ある意味裏切られた。
流れ始めた映像は、素晴らしく美しいものだった。
映像美という意味では、期待以上のものをエ提供されたと思う。
だが、ストーリーには裏切られた。
少なくとも、流空は。
短編アニメーションの主役は『美しき夢人』の中で最後まで正体を明かされなかった、美しい少女だった。
原作者が作っているのだからいいのだろうが、盛大なネタバレだ。
できれば、知らないままでいたかった。
少女は夢の世界の住人などではなく、流空がこの人だったら嫌だなと思っていた最も嫌な人として、現実世界に存在していた。
母の若かりし頃の姿を、少年は追っていたのだ。
幼い頃に病死した母の面影を追って夢の中に入り込んでいたと気づいた時、少年は絶望しはしなかったのだろうか。
夢とは、その人物の心の中を表しているとも言われる。
それを思うと、観ている流空のほうが居たたまれない気持ちになった。
映画の中で、少年は夢の世界だけでも母に会えるならばと、繰り返し夢の世界を訪れることを選ぶ。
けれど少女は、少年に会えることを楽しみにしながらも、もうここへは来ないでくれと願う。
多くの人の夢が眠る『夢の宮殿』は道が多く、簡単に迷ってしまうから。
『人はどうして、目覚めなければいけないのですか?』
少年は問う。
ようやく会いたい人に会えたというのに、どうして別れなければいけないのか。
その問いに、少女はこう答える。
『夢の世界には、時間が存在しないから』
過去も、現在も、そして未来もない。
どこにもいけない世界に、囚われてはならない。
共にいたいと、愛していると言いながら、少女は少年を夢の世界から追放してしまう。
それが、母親の愛というものなのだろうか。
愛しているのなら、たとえそこが少年のいるべき場所でないとしても、連れて行きたいと願うものではないのだろうか。
額縁に入れていた絵に絵の具をかけられたような、静かな怒りが流空の胸の中を満たしていた。
きれいな、物語だ。
本当に、きれいな──。
だが、流空には受け入れられない。納得ができない。
流空の中の何かが、このきれいさを拒絶していた。
何か、なんて言葉を濁さなくても、自分ではその正体に気づいていたが、そんなものがあることを認めたくなかった。
映画が終わり、しばらくしてから試写室の明かりがつく。
すぐに話し出すような学生はおらず、束の間の静寂が訪れた。
そのほんの数秒の間に、隣から鼻をすする音がした。
え、と横を見ると小夜が目元を赤くしている。
涙を堪え、ハンカチで鼻を押さえている。
「感動したの?」
考えるよりも先に、問いかけていた。
映画への感じ方は人それぞれだろうし、それを批判するつもりはない。
けれど、小夜はこのきれいな物語を観て泣ける部類の人なのだなと思うと、何故かショックを受けた。
小夜は話しかけられたことに、というより、流空の質問が意外だったみたいに首を傾げる。
落ち着いてみると、泣いているのは小夜だけではないようだった。
あちこちで、泣けた、泣きそうになったという感想が飛び交い始める。
そうか。そういうものか。
す、と冷める感覚があった。
個人的な事情を抜きにして考えれば、泣ける映画だったのかもしれない。
そう頭を切り替えようとしていた時、鼻声の返事が聞こえた。
「男の子が、かわいそうで」
え? と小夜の顔を見る。
小夜はまだ半分映画の世界に囚われているような表情をしており、話している相手が流空だと理解しているかもあやしい気がした。
「こうしたら幸せかもしれない、って想像で決められるのは、かなしいなって。人から見たら不幸なことかもしれないけど、その人にとっては幸せなことってあると思う」
少年にとっての幸せは、現実世界に帰ることではなかった。
少なくとも、その時は。
すとん、と胸に落ち着く感想だった。
小夜と同じように、少年をかわいそうだと思ったわけではない。
少年の未来や、現実的なことを考えれば、少女の判断は正しいのだと思う。
納得はできないけれど、最終的にどちらが正しいか、と聞かれれば少女と答えるだろう。
でも、小夜のその考え方はいいな、と思う。
少年の心に、寄り添っているようで。
「そういう考え方、いいね」
ひとり言のように口から出た言葉に、小夜が濡れた瞳で流空を見つめた。
はっとしたような小さな驚きのあとに、瞳が揺れて彷徨う。
どうやら、夢の時間は終わってしまったようだ。
小夜がまた、鼻をすすった。
女の子が泣いていたらハンカチよりもティッシュ。
流空の持論だが、ハンカチは汚してしまったあとに返すのが億劫で借りにくいが、ティッシュならば一枚や二枚、ひとつやふたつもらったところで高くつくものでもない。
差し出すほうももらうほうも気楽だから、涙にはティッシュ。
雰囲気も何もあったものではないが、涙で作る空気感は元よりあまり好きではない。
「どうぞ」
ティッシュを差し出すと、小夜は流空の手を見下ろしてから二度、首を横に振った。
断られることは予想していた。
話していた相手を流空だと認識したら、さっきの話の続きはできないだろうな、ということも。
それでもティッシュを差し出したのは、少年に代わって礼を言いたいような、そんな気持ちからだった。
礼といっても、たかがティッシュではあるが。
どう言ったら受け取ってもらえるだろうと考えて出た答えは、
「そこらでもらったやつだから鼻の皮むけるかもしれないけど、垂らすよりたぶんましだから」
あまり女の子にかける言葉ではなかった。
いつも相手から放られたボールを返すラリーばかりしてきたせいで、自分から動くと失敗するいい例だ。
小夜の目が、瞬きのあとに流空を見た。
睨まれるのを覚悟したが、予想に反して丸い目は瞬きをもう一度繰り返す。
「垂れてる?」
小声で聞かれ、
「たぶんもうすぐ」
と同じように小声で返した。
ふっと柔らかくなった空気に、息が苦しくなる。
「二枚、いただきます」
ご飯を食べる前みたいに両手を合わせてから、小夜はティッシュを二枚抜き取った。
上品に鼻をかむ姿を見つめていたことに気づいて、慌てて視線を逸らす。
たかがティッシュを受け取ってもらえただけで、嬉しいと思う自分がいた。
人にどう思われようと気にしないほうだと思っていたが、案外気にしていたのかもしれない。
「このご恩は必ず」と武士みたいに神妙な面持ちで言われたのに、小さく笑う。
ここで会話が終わってしまうかと思いきや、野本がひょいと身を乗り出して口を挟んだ。
「どうだった? 映画?」
大雑把な質問に、思わず小夜とふたりで顔を見合わせる。
「あの少女って、やっぱ地球を表してたんだと思う?」
「え……」
随分と大きな枠に当てはめた解釈に、言葉に詰まった。
野本は大真面目らしく、興奮に目を輝かせている。
これは、下手な感想を言えそうにない。
答えに窮している流空の代わりに、小夜が口を開いた。
「野本くんの解釈だと……ひとりを犠牲に地球を救った物語になるのかな?」
「うん。俺はそうだと思ってる。だからこそ、感動したわけだし。鷲尾さんは違う解釈派?」
ついていけない流空をおいて、ふたりの会話は進んでいく。
「うーん……解釈ってほどのことはないけど、私は……ひとりのために地球が犠牲になる物語でもよかったなあって思いました。最後くらい、我侭でも許してほしいなって」
やっぱり、小夜の考え方は独特でいいなと思う。
たったひとりのために地球を犠牲にできるかと言えば、たぶんしない。
けれど、物語の中でなら、そんな我侭が通ってもいいなという気持ちはわかった。
「もしかして鷲尾さんってメリバ好き?」
「メリバって?」
流空が横から口を挟むと、野本が「メリーバッドエンド」と説明をしてくれる。
全体的に見ればバッドエンドなのだけれど、例えば、主人公にとってだったり、主人公と恋人にとってだけは幸せな結末を迎える。
それを、メリーバッドエンドと呼ぶらしい。
小夜が好きな物語はそういうものともまた違う気がしたが、小夜は「好きなものもあるかなあ」と曖昧に頷いていた。
ふと、小夜とまだ普通に会話をしていることに気がついた。
主に野本と小夜が話してはいたが、流空も時折会話に加わっている。
無視もされていなければ、睨まれてもいなかった。
これは、大きな一歩だろう。
それを顔に出していた気はないのだが、授業が終わって試写室を出る時、
「今度ランチおごりな」
と、野本からちゃっかりと言われた。
思ったよりも、浮かれていたのかもしれない。




