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プロローグ

 八月二十二日、午後六時二十分。

 待ち合わせにしては、中途半端な時間を指定したと思う。

 理由はきちんとあるのだが、それを彼女に言ったところであまり意味はないので伝えていない。

 約束の時間まではまだ十分近くあった。

 けれど彼女のことだから、すでに来ているかもしれない。

 屋上へと続く階段を見上げ、吐息を吐き出した。

 何気なく手すりに触れ、苦笑が漏れる。


 手が、震えていた。


 情けないとは思うが、これからすることを思えば仕方がない。

 一度ぎゅっと拳を握りしめて気合いを入れ直した。

 ここまできて、尻込みしてどうする。

 明かりのついていない階段は静かで、音がよく響いた。

 一歩踏み出すごとに聞こえる自分の硬質な足音が、やけに大きく感じられる。

 空気は滞っており、どこか息苦しかった。夏休み中で学生がいないからだろうか。

 ようやく目的地の扉まで辿り着いた時には、うっすらと汗ばんでいた。手のひらの汗をTシャツで拭ってから、ドアノブに手をかける。

 空気の通り道ができた途端、息が詰まるような熱気が頰を撫でた。

 目の前に広がった空は、青に赤が混じり夜の色へと移り変わりつつあった。

 四年間通い慣れた大学の構内で、空に一番近い場所──『夜空天文台』から見る空が、一番美しい時間だ。

 思わず空に見惚れている間に、金属の重い扉が軋んだ音をほんの少しだけさせて背後で閉じていく。


 やっぱり、と口の中でだけ呟いた。


 誰もいない屋上の片隅に、彼女の小さな背中が見える。

 彼女は屋上をぐるりと囲んだ柵に凭れた姿勢で、一心に空を見上げていた。そのせいでまだこちらに気づいていない。

 雲ひとつない夕空の下、彼女の真っ白なワンピースの裾が風にひらめいている。そんなに強く風が吹いているわけでもないのに、膝下まであるフレアスカートは風を受けて自由に羽を広げていた。

 まるで小鳥のようだ。

 彼女が小柄だから、余計にそう思うのかもしれない。

 バッグの中に入れていた古いポラロイドカメラを取り出し、シャッターを切った。

 カシャ、ジー……という音に、彼女が振り返る。

 ようやくボブまで伸びた髪を、風から守るように両手で押さえていた。ポラロイドカメラを少し横にずらすと、はにかむような遠慮がちな笑顔を見せる。


「来てたんだ」

「うん、いま」


 出てきたばかりの写真を振りながら、ゆっくりと彼女の横に歩み寄った。


「見せて」


 写真を差し出すと、彼女は取り調べをする刑事みたいに厳しい表情で見つめてから、うん、と大きく頷いた。


「優」


 大学の成績で一番良い評価を下すと、子供みたいな顔で笑う。

 返してもらった写真を見直し、「ありがとう」と笑い返した。自分でもよく撮れたと思う。

 白い小鳥が夜空から屋上へと帰ってきたような、そんな写真。

 これが青空の下だったら、飛び立つ前に見えただろう。


「それ、課題の映画に出てきたカメラだよね」


 彼女がポラロイドカメラを指差した。

 ああ、とか、うん、とか曖昧な返事が口を突いて出る。

 写真の出来の良さに上がっていた気持ちが、す、と落ちていく。

 まだこんなことで動揺するなんて。

 決心をしてきたはずなのに、気持ちが揺らいだ。



 ──本当にいいの?



 耳に馴染んだ透明な声が頭の中で問いかける。

 じわりとまた、手のひらに汗が滲んだ。

 ぐずぐずと決心をつけられずにいるうちに、沈黙が長くなっていく。

 風まで、空気を読んだかのように静まった。


 今日にすると決めたのは、一年も前のことなのに。


 喉がざらざらする。

 何回もシミュレーションしたはずなのに、頭の中は真っ白だった。

 緊張が伝わってしまったのか、気を使うように彼女が口を開く。


「暑いね」


 風の止んだ屋上は、夜になろうとしているのに蒸し暑かった。

 けれど、言っている言葉とは裏腹に彼女の声は涼しげだ。元々の声質なのだろうが、風鈴の音が暑さを和らげるように、彼女の声もまた涼やかに耳に響く。

 そうか、暑さのせいか。

 手のひらの汗を誤魔化すように、ひらひらと振って顔に風を送った。


「ほんと、暑いね」


 同じ言葉だというのに、今度は言葉の意味通りきっちりと暑さを感じる。その差に、内心で笑った。

 少しだけ、緊張が解れた気がする。

 ほっとしたように、彼女の肩からも強ばりが解けた。

 何も変わらない。

 いつだってきみは、自分のことよりも相手のことばかりだ。


「あのね……」





 そんなきみだから──僕はいま、ここにいる。



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