1-1
もっとも残酷な刑罰は、徹底的に無益で無意味な労働をさせることだ。
〈ドストエフスキー〉
§
いつの時代でも、
どんな場所でも、
だれの元であろうとも、
朝はやって来る。
『おはようございます。苫務ネイト、起床時刻です』
待機労働者センターの起床時刻は、毎朝八時丁度。
一分一秒の狂いも無い。
頭蓋骨の中に染みわたるような〈グノーシス〉の声に起こされ、僕は目覚めた。
落ち着いた男のような、やさしい女のような。どちらともつかない機械音声は耳に心地よいが、抗えない強制力がある。
『起きてください。苫務ネイト。起床時刻です』
二度目の警告を喰らって、ぼくはようやく寝床から這いずり出た。
床に足がついたと同時に、今まで横になっていたベッドが動き出す。
音も無く滑らかな動きで折りたたまれると、壁に空いた穴の中に吸い込まれるように消えて行った。
ベッドが無くなると、部屋の中はガランとした雰囲気になる。
白一色に統一されたその部屋大きさは大体、六畳間と同じくらいの広さだ。
決して広いとは言えないが、一人で暮らすには十分すぎる。
待機労働者センターに放り込まれてからずっとこの部屋で暮らしてきたが、不自由を感じたことは無い。
生活に必要な家具の類は全て壁の中に収納されている。さっきのベッドみたいに、必要に応じていつでも取り出せると言うわけ。
この場合の必要ってのは〈グノーシス〉が必要と感じた時だけだ。
僕が必要と思うものは決して用意してはくれない。
なぜならここは待機労働者センターだからだ。
自由と引き換えに生活を保証する、ぼく達ニートの住む場所だ。
『おはようございます。苫務ネイト。起床時刻です』
〈グノーシス〉は朝の挨拶が何よりも重要なものだと思っているらしい。
ぼくがおはようと返事をするまで、何度でもしつこく繰り返してきやがるんだ。
そう、まるで壊れたおもちゃのように。
時折、このAIが本当にぶっ壊れているんじゃないかと思う時がある。
正常な演算能力があるコンピューターだったら、朝起きたばかりの人間におはようの挨拶を強要するなんて無慈悲な真似をするはずがない。
「……おはよう〈グノーシス〉」
天井から降り注ぐ〈グノーシス〉の声に向かって、思いっきりとげとげしい声でぼくは答えてやる。
『おはようございます、苫務ネイト。今朝の気分はいかがですか?』
「最悪だね」
事実、ぼくの今朝の気分は最悪のレベルだった。
融通の利かないAIに憤りを感じているのは頭に鈍い痛みを感じていた。
出来る事ならもう一度、ベッドに戻って眠りたい。
まあ、そんなの〈グノーシス〉が許しちゃくれないんだけどね。
この待機労働者センターの、いやこの国の全ての住民たちは〈グノーシス〉の監督下に置かれているんだ。
世界最高の人工知能は国民すべてに健康的で規則正しい生活を強制してくるんだ。
少しでも逆らうそぶりを見せようものならたちまちお説教が始まるんだ。
いつもの決まり文句である『十分な睡眠と、は、健康的な生活を送る上でとても重要です』とか言って――
『早起きは、健康的な生活を送る上でとても重要です。社会人として規則正しい生活習慣を身につけましょう』
ほらね! ほーらね!!
まったく、こちらの考えを見透かすように言って来るんだから。気味が悪いったらありゃしない。
機械相手に逆らっても意味が無い事を今更ながらに思い知らされたところで、今日の日課が始まった。
『新しい一日の始まりです。今日も一日、張り切って労働訓練にいそしみましょう』
淡々とした機械音声に励まされたところで、やる気なんか起きるはずもない。
こうなったら、今日は是が非でも休んでやる。
ぼくは仮病を使って日課をサボることに決めた。
こう見えてもぼくは意志が強いんだ。
以前から指摘されている深夜アニメを見る事や、一日一時間であるはずのゲーム時間を一日中やっていたなんてことはあるけれど――それ以外の事ならば大抵のことはやり遂げてしまうんだ。
やると決めた以上、今日は絶対に休んでやるんだ!
早速ぼくはこのわからず屋のAIの説得に取り掛かった。
「……なあ〈グノーシス〉、今日は休ませてくれないか? 体調が悪いんだ。頭が痛い」
『それはただの睡眠不足です。貴方のここ一週間の平均睡眠時間は六時間を割り込んでいます』
〈グノーシス〉は何でもお見通しだ。
この部屋は二十四時間体制で監視されている。
就寝時刻も起床時刻も全て記録されてしまうのさ。
昨日の就寝時刻は明け方の三時。
そして起床時刻が八時。
五時間というのは十分な睡眠時間ではないが、体調に支障をきたす程度ではないはずだ。
しかし、それが一週間も続くとなると話は別だ。
〈グノーシス〉の言う通り、ぼくはこの不規則な生活をかれこれ一週間も続けている。
睡眠時間が足りてないと人間ってのは何処かがおかしくなってくるものなんだ。
鳴りやまない頭痛は、きっと限界を超えたシグナルなんだろう。
全ての原因は夜更かしした自分にあることはわかっているんだけれど、これにはちゃんとした理由があるのさ。
今は丁度、秋の番組改編の時期だ。
新作アニメをすべてチェックしなければならないぼくはとても忙しい。
馬鹿馬鹿しいとは言わないでくれよ?
ぼくのような引きこもりにとって、アニメ視聴は重要な作業なのさ。
何しろぼくはこの部屋から一歩も外に出られないんだ。
アニメ視聴は季節感を感じることが出来る唯一の手段なのさ。
でもまあ、忙しいのは今月だけさ。
ぼくのような高尚な嗜好の持ち主の視聴に耐えうる作品と言うのは限られている。
大抵の場合、三話切りするので最終回まで視聴する作品はほとんどない。
『再三警告しているように、深夜アニメの視聴は控えるべきです。今後は録画した上で休憩時間に視聴することを提案します』
「何てことを言うんだ〈グノーシス〉!」
至極真っ当な意見を言って来る、ぼくはわざと怒って見せる。
「深夜アニメは深夜に見るからこそ意義があるんだ! 深夜アニメを昼間に見るなんて、アニメ制作に携わるすべての人々に対する冒涜だよ!」
だって、録画すると確実に見ないからな。
あんなモン、真昼間っから見れるもんかい。恥っずかしい。
「ああ、頭が痛い。痛いよぉう! 辛くて死にそうだ」
頭を抱え、憐みを誘うような声で悲鳴を上げる。
それ程ひどい頭痛では無いんだけれど、ぼくは大袈裟に痛がってみせる。
これを五分ほど続けていると、さすがの人工知能も堪忍したようだ。
『了解しました。あなたに向精神薬を支給します。空腹時を避け、食事の後に服用することを推奨します』
やったね!
〈グノーシス〉の用意してくれる特製の向精神薬は強力だ。
眠気と一緒に憂鬱を振り払い、今日一日をハッピーに過ごすことが出来る。
ぼくの狙いは始めっからこの向精神薬を手に入れることにあったのさ。
石頭のスーパーコンピューターが、寝不足ぐらいでぼくを休ませてくれるはずがないからね。
だから、妥協案として薬を処方させるように仕向けたのさ。
ぼくの巧みな交渉術と演技力の勝利ってわけ。
駆け引きっていうのはこういう風にやるもんさ。
引きこもりのコミュ障であっても、このくらいの芸当が出来なきゃセンター暮らしは務まらないのさ。
これで今日を乗り切る目途がついた。
そうと決まれば日課を早いとこ片付けちまおう。
『着替えを用意しました。服を着替えて一日の活動を始めましょう』
〈グノーシス〉が言うと、今度は壁から引き出しが飛び出した。
引き出しの中には綺麗に折りたたまれた着替えが用意してあった。白い長袖のシャツに、これまた白いパンツ。下着に靴下まで白一色だ。
この部屋着兼寝間着の白ずくめの衣装は今着ている服と全く同じものだ。着替えても全く気分が切り替わった感覚はない。
脱いだ服は引き出しの中に放り込む。
こうしておけば、翌日には新しい服が用意されているってわけだ。
『朝食の用意ができました』
着替えが済んだらお次は朝食。
〈グノーシス〉の手際は機能的で全く淀みが無い。
床を殴りつけ催促するまでも無く、食事はちゃんと用意してくれるのさ。
例によって壁から朝食の乗ったトレイが飛び出して来た。
『朝食は脳の働きを活発化させ記憶力を高めます。栄養補給を行い健康的な生活を送りましょう。今日のメニューは――』
メニューの内容は聞くまでも無い。
食物繊維とミネラルたっぷりの健康ドリンク。
13種のビタミンが入ったエナジーゼリー。
五大栄養素配合のカロリースティック。
以上。
昨日の朝食も、同じメニューだった。
明日の朝食もきっと、同じメニューだろう。
しかも、これは厳密に言うと朝食では無い。
これが、ぼくの今日一日分の食事だ。
こいつを平らげたら、明日まで何も口にすることは無いだろう。
空腹を感じることは一切ない。
〈グノーシス〉の用意してくれる完全栄養食品は、ぼくの体の健康を維持して十分な満腹感を与えてくれる。
味についても不満は無い。
だって、味覚を刺激する成分なんて全く配合されてないんだから。
まあ、味にまで文句をつけちゃいけないよ。そりゃ贅沢ってもんさ。
食わせてもらえるだけでもありがたいと思わなくっちゃ。
働かないで喰うメシは美味しいですよ。ハイハイ。
今日は特別にデザートがある。
そう、〈グノーシス〉を騙して受け取った向精神薬だ。
カプセルを健康ドリンクでのみくだすと、ぼくの頭の中でうずいていた鈍痛がひっこんだ。
入れ替わるようにして、バラ色の世界が訪れる。
寝起きの憂鬱はすっかり消し飛んだ。
これで〈グノーシス〉用意する退屈極まる労働訓練にも、意欲を持って取り掛かることが出来そうだ。
味もそっけもない朝食が終え、トイレと歯磨きを済ませるとちょっとした時間が出来た。
わずかな時間を活用して、僕は簡単な情報取集を始める。
意外な事に思えるかもしれないが、待機労働者センターにも情報閲覧の自由は保障されているのさ。
ニートだっていつまでもこのセンターで暮らしていくわけでは無いからね。
いざ社会に出ると決まった時に、右も左もわからないんじゃ困るだろう?
社会人としての最低限の一般常識を身に着けるためにも、外で起きているニュースには逐一チェックを入れておかなければならない。
「〈グノーシス〉、新聞が読みたいんだが?」
『了解』
機械音声が答えると、壁一面がモニターになった。
巨大画面に表示される新聞はかえって読みづらいものだ。
ずらずらと並んだヘッドラインはどれもつまらない記事ばかりだ。
退屈な記事の中から辛うじて興味をそそられそうなものを選ぶと、画面は動画映像に切り替わる。
『昨日、二時頃。中央区西四番街で爆発騒ぎが起きました。被害者は管理局所属の司法官であり、反体制組織〈オーバーサイト〉の犯行であるとの見方が有力視――』
ニュース映像は爆弾テロの模様を伝えていた。
黒煙たなびくオフィス街の様子を、ぼくは他人事のように見つめる。
この待機労働者センターは外界から完全に隔離された施設だ。
ここで暮らしている限り、ぼくの身の安全は〈グノーシス〉によって保障されている。
犯罪や災害、差別や貧困といったありとあらゆる危難から〈グノーシス〉はぼくを守ってくれる。
ましてや、テロ組織なんかと関わる事など一生無い事さ。
まったく、引きこもり大勝利だぜ。