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「――ブランテッ!」
叫びながらネロは目覚めた。叫んだと同時に勢いよく起き上がって荒い息を吐く。全身にびっしょりと汗をかいていた。右手を顔にあてて自分の左手を見つめていると、さっきまでの出来事が夢だったのだと理解できた。そうでなければ、自分がブランテと会話している筈がないと、少ししてから自嘲気味に笑う。
突然大声を出したネロを、ロレーナは怒っているような悲しんでいるような笑っているような不機嫌のような戸惑っているような、言葉では言い表せない複雑な表情で見た。その視線にネロは気付かない。「は、はは……」と乾いた笑いを漏らすネロを見ているうちに、ロレーナの顔は悲しみと哀れみに塗りつぶされていった。
やっとのことで落ち着くと、ネロは部屋に充満した匂いに気付いた。甘くて香ばしいよく知った匂いだ。買い物に行く前に言っていた通り、ロレーナはパンを焼いていたようだ。出来立ての香りはまた違う、とネロは思った。
「なーんでぇ、ネロ君は起き上がっているんですかー? ダメって言ったじゃないですかー」
つい先程の出来事には何も触れずにロレーナは言った。声色は全く怒っていないように感じる。ネロは曖昧にはにかんで「寝てばっかだと骨がおかしくなりそうで」と言い訳をした。随分と今更な言い訳だ。
「まあ無理してないならいいですけどー」
口を尖らせながらロレーナは言う。焼けたばかりのパンをかごにいくつか入れると、余ったものは皿に乗せてネロのところへ持っていった。そして「味見どうぞー」と言う。ロレーナが焼いていたのはスフォリアテッレだった。店で売っているものと同じく形がきれいで食欲をそそる。
ずっと寝ていて飲み物すらろくに口にしていなかったネロは密かに空腹を感じていた。なので、ロレーナには心底感謝した。遠慮なんて余裕は生まれず、渡された皿を膝の上に置いてスフォリアテッレにかじりつく。「うん、美味しい」と幸せそうな顔で言ったきり、ネロから感想が出ることはなかった。が、スフォリアテッレを食べるネロの顔を見てロレーナは満足したようだった。
「さてー、クリムちゃん? 聞こえてますよねー?」
パンが入ったかごを持って階段の前に行くとロレーナは少し大きめの声でそう言った。反応は無い。沈黙は肯定と見なして、ロレーナは続けた。
「こーんな結界まで作っちゃってぇ、ウジウジウジウジぃ、ウジ虫さんですかー?」
「いや、ロレーナ、ウジ虫はちょっと……」
ロレーナの口から突然飛び出した暴言にネロが口を挟むと、「ネロ君は黙っててくださいー」と言われてしまった。その顔は少し怒っているように見える。
「ねぇ、クリムちゃん? みんなの反応、怖いですよね? ……もう、聴いたかもしれませんね。でも、クリムちゃん、引きこもってますけど、どうして逃げようとしないんですか? 人との関わりを断ちたいなら、そうやって引きこもるよりも、お家に帰っちゃった方が、確実じゃないですか」
階段の奥からはなんの反応も返ってこない。
ロレーナの口調がいつもののんびりしたものでは無くなっていることに気付くと、ネロは少しだけ不安になった。こういうときのロレーナは厳しいことを言う傾向にある(既に言っているのだけれど)。ナディアにあれだけ言われたあとで、ロレーナの説教はクリムを更に精神的に傷付けるのではないだろうか。ネロはそう思ったのだ。
そんなネロの不安なんて知ってか知らずか、ロレーナの言葉は続く。
「クリムちゃん今、この家に凄く重たい空気を流してます。魔力も混ざっているんでしょうね。弱っているネロ君やスメールチさんにはあまりよくない環境ですよ。クリムちゃんは、二人を苦しませるつもりですか?」
ゴトリ、と上の部屋で何かが動く音がした。
「クリムちゃんは、ネロ君やスメールチさん、ブランテ君から『出ていけ』って言われましたか? ……言われませんでしたよね。むしろ、『ここにいろ』って言われたと思います。だから、クリムちゃんは出ていかずにここにいるんですよね。私も、同じですよ。そうでなきゃ、クリムちゃんの好きなものを持ってこうやって話しません。
クリムちゃん。いつまで、そこにいるつもりですか? 私には、いつ顔を見せてくれますか? これでも、心配してるんですよ」
ロレーナはクリムの反応を待つ。しかしそれらしいものは何も返ってこなかった。
「クリムちゃんが魔女だろうが不死身だろうが関係ないです。だって、クリムちゃんは、どう考えても普通の女の子と変わらないじゃないですか。私は、クリムちゃんが好きですよ」
そこまで言い切ると、ロレーナは急に微笑んだ。その目線の先には、見るからに脆い少女がいた。出てきてくれたのだ。
「ごめん……なさい……」
クリムの口から発せられたのは謝罪の言葉だった。それにロレーナは眉を下げて困ったようにはにかむと、「謝罪よりもぉ、お礼の方がぁ、嬉しいですよねー」と言って階段の上にいるクリムにスフォリアテッレが載ったかごを差し出した。それから「一緒に食べますよね?」なんて笑う。
「……ありがとう」
声は震えて掠れていたが、クリムの顔には笑顔が戻りつつあった。




