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ハリネズミのジレンマ  作者: 篠原皐月


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第40話 交錯する思惑

「それでは、夜分申し訳ありませんでした。失礼します」

 人気の無くなった職場で電話をかけていた隆也は、丁重に礼を述べて通話を終わらせた。そしてスマホを耳から話しながら、忌々しげに呟く。


「全く、手間をかけさせてくれる。詳しい話は明日になるだろうが、やはりこの際きちんと説教をするべきか……」

 そんな事を考え込んでいると、間を置かずにかかってきた電話の発信者名を見て、隆也は意外そうな顔になった。


「芳文?」

 そして一瞬不思議に思いながらも、応答することにして軽口で応じる。


「どうした。あいつなら少し前に解放されたぞ?」

「ああ、知ってる。今テレビを見てるからな」

「テレビ?」

「中継で解放されたのは知ってたが、電話が繋がらなくてな。今日はレギュラー番組の生放送って聞いてたから、一応見てみたらしっかり出演中だ」

 淡々とした口調で芳文が報告してきた為、隆也は疲れた様に溜め息を吐いた。


「馬鹿か、あいつは。こんな時位大人しく帰れ。周りに散々、心配させやがって」

「俺も同感だ。あんな事を公共の電波で喋りまくるならな」

 その一言で、隆也は瞬時に顔付きを険しくした。


「何を言った?」

「現在進行形だ。今すぐ関東テレビを見ろ」

「後から電話する」

 互いに余計な事は言わずに通話を終わらせ、隆也は再びテレビを見始めた。そして芳文が指示したチャンネルに設定した途端、喧騒が伝わってくる。


「いやぁぁっ! 私、そんな怖い思いをしたら、心臓止まりますぅぅっ!!」

「ホント、宇田川さんって度胸ありますよね~」

 どうやらトークコーナーは貴子の話で進んでいるらしく、彼女が困惑気味に周囲を宥めている所だった。


「ほら、皆に怖い思いをさせちゃったし、私の間違ったイメージが世間に広がりそうだから、もう事件の話は止めましょうよ。私、今日は梶山さんから、芸能界の暴露話を聞けるのを楽しみにしてきたのに」

 すると彼女の隣に座っているベテラン女優の梶山景子が、苦笑いしながら貴子の肩を叩く。


「宇田川さん、諦めましょうね? 私の話なんてカビの生えた話ばっかりだから、全然面白くないわよ。ほらADさんだって『もっと事件の話で引っ張って』ってフリップに書いてるわよ?」

 にこやかに笑いつつ、前方にしゃがんでいるらしいADを指差す仕草をした梶山に、司会者も力強く同意した。


「そうそう、ここは諦めが肝心。事件当事者の話なんて、滅多に聞く機会無いんだから」

 そう言われた貴子は、諦めた様に小さく肩を竦めた。


「はぁい。じゃあ全体的な経過はこれまでに大体言いましたけど、他にどんな事が聞きたいですか?」

「ズバリ、犯人像とか? これまでも警察当局の行動に、色々鋭い突っ込みや批評を加えつつ状況説明をしてくれた宇田川さんの事だから、案外見当ついてるんじゃない?」

 番組を面白くしようと司会者が茶化す様に言ってきたが、その台詞に貴子は真顔で考え込んだ。


「う~ん、そう言われても……、本当に目出し帽と野球帽で、目元も良く見えなかった位だし。男五人に、女一人って事位しか見当がついてないけど……」

「え? 何で女が混じってたって分かるの?」

 予想外の事を言われて司会者が戸惑った声を上げると、貴子は慌てて弁解してきた。


「あ、今のは一応、私が個人的にそう感じただけですよ?」

「因みに、その理由は?」

「犯人の中で一番小柄な人だけ、一言も喋らなかったんです。だから、声で性別が分かるから警戒してるのかな、と。それにトイレに付いて来られた時、女性用トイレに私に続いて微塵も躊躇いなく入って来たんです。男性だったら、やっぱり一瞬戸惑いません?」

「成程……。確かにそうかもな」

 男性の共演者が感心したように相槌を打ったが、ここで貴子は真顔で付け加えた。


「でも男性でも女装癖があるとか盗撮常習犯で、女子トイレに入り慣れてるって可能性もあるんですけどね?」

 貴子がそう真顔で口にした途端、スタジオは一瞬静まり返り、次いで爆笑に包まれた。そして自らも笑いを堪えながら、司会者が貴子に声をかける。


「ちょっと待って貴ちゃん、勘弁して。俺今、凄く感心した所だったのに、笑いを取らないで」

「ごめんなさい」

 笑顔で一応謝罪してから貴子は真剣な顔に戻って、考え深げに話を続けた。


「だけどその犯人、リーダーの犯人と頻繁に小声で話し合ってたし、リーダーの恋人とかって考えると、しっくりくるんですよね」

 そんな風に思わせぶりに述べると、特に女性陣が色めき立つ。

「じゃあカップルで銀行強盗って事ですか!?」

「何か一気に、ロマンスの感じがするんですけど!」

「現代版、ボニー&クライドって事!?」

 目の色を変えて食いついて来た女性達に、貴子は苦笑して軽く首を傾げた。


「さあ、どうでしょう……。それにリーダーの男は普通に喋ってましたけど、他の犯人は喋る時は皆片言だし、何となくアクセントに違和感を感じたんです」

「それじゃあ純粋な日本人じゃないとか、出稼ぎの外国人労働者とか?」

「彼女の借金を返す為に、強盗に走ったかも?」

「銃も人数分揃ってた事を考えると、東南アジア系の犯罪組織が最近国内で勢力を伸ばしてるって噂も、無視できないですよね」

「やっぱり、裏には組織が付いてるのかな?」

「そりゃあ、こんな大胆な事やってのけるんだし、バックが無いと駄目だろ?」

「そうだなあ、最近物騒だよね」

「本当に、普通に街を歩いているだけで、犯罪に巻き込まれる時代だもの。気を付けないと」

「それじゃあさ、貴子ちゃん。支店の中では両手を縛られてたって言ってたけど……」

 貴子が要所要所で、出演者達が想像を膨らませる様な情報を提供したりコメントを繰り返している為、議論はどんどん白熱していった。しかしそれ以上見る気になれなかった隆也は、苦々しい顔つきになって視聴を終わらせた。


「完全に見境なしだな。やって良い事とそうでない事の、見極めが付かなくなってるとは。普段はそこまで、馬鹿じゃない筈だが……」

 絶望的な表情になってそう呟いた隆也は、それ以上時間を無駄にはせず、芳文に電話をかけた。


「見たか?」

 繋がるなり短く問いかけた相手に、隆也は苦々しく応じる。

「ああ、拙過ぎる。明らかにやり過ぎだし、察するに俺が見始める前に警察の対応とか批判してたのか?」

「あからさまには非難していなかったが、チクチクと皮肉っぽい事を。それにあの言動、情報操作と取られても文句言えんだろ。どう考えても捜査を混乱させる為に、言っているとしか思えない。さっきから犯人逮捕の一報も無いしな。それで、どうする気だ?」 

 暗に「取り逃がしたよな?」と含ませたその問いかけに、隆也は珍しく迷う素振りを見せてから、言葉少なに依頼した。


「……悪いが、回収を頼む」

「お前の立場からすると、そうだろうな。だが、困ったな。そろそろ貴子が番組に出演してるのが分かって、捜査員が大挙してテレビ局に押し掛けてくるんじゃないのか?」

 苦笑しながら応じた芳文だったが、考えられる懸念を口にすると、隆也はすぐに記憶の中から使えそうな情報を引き出して告げた。


「確か……、あそこの編成局長が、あいつの母方の叔父だ。面識は無いが、あいつの母方は警察上層部が揃ってるから、俺の身元辺りは調べが付いてて名前位は知ってるだろう。事情を話して協力を仰ぐ」

「それなら俺は今から関東テレビに向かう。段取りを付けたら、連絡を入れてくれ」

「分かった。切るぞ」

 長い付き合いであり、余計な説明は抜きで動いてくれる芳文に感謝しつつ、隆也は自身のスマホの中に入れておいたデータを呼び出した。


「一応、調べておいて助かったな」

 まさかこんな事態で使う事になるとはと、隆也は心底うんざりしながら、これまで全く面識の無い人物に電話をかける事となった。


 貴子が知らない所で色々事態が動いている間に無事番組の収録が終了し、出演者は互いに挨拶をしながら、スタジオの奥に引っ込んだ。貴子はすぐに帰るつもりでいたが、やはり共演者に捕まってしまう。


「お疲れ様でした」

「お疲れ~。ねえ、貴ちゃん。これからちょっと付き合わない?」

「そうですよ! 事件の話、もう少し聞きたいです!」

「結構色々、喋ったと思うんですけど」

 複数人に囲まれてしまい、苦笑いで(どうしようかしら?)と考え込んだ貴子だったが、ここで予想外の救いの神が現れた。


「宇田川さん! ちょっと来てくれるかな?」

「はい」

 番組担当ディレクターの立浪が、隅の方から手招きしてきた為、貴子はこれ幸いと逃げ出す事にする。


「何か呼ばれているみたいだから、失礼しますね」

「うう、残念!」

「宇田川さん、今度レギュラー降板しちゃうんですよね? その関連の話ですか」

「さあ……。でも次回の収録までは出るから、皆が飽きていなかったら、空き時間にじっくり話をするわ」

「約束ですよ?」

「じゃあ仕方ないですね」

「お疲れ様でした」

 そして周りを振り切った貴子は、出入り口近くに佇む人物に駆け寄った。


「立浪さん、お待たせしました。どうかしましたか?」

「実は加納編成局長から、ちょっと案内を頼まれてね。付いて来てくれるかな?」

「はあ……」

 そう説明して廊下を歩き出した立浪の後ろに付きながら、貴子は密かに首を捻った。


(加納のおじさまが? 普段はお互いに無関係を装ってるのに、どうしたのかしら?)

 不思議に思いつつおとなしく付いて行くと、幾つかドアを抜けた所で、予想もしていなかった人物が貴子を待ち受けていた。


「やあ、貴子」

 壁にもたれながら、軽く片手を上げて笑顔を向けてきた相手に、貴子は本気で呆気に取られた。

「芳文? どうしてこんな所に居るわけ?」

 その問いに芳文は苦笑いして壁から背中を離し、彼女に向かって歩いてくる。


「テレビで事件の中継を見たんだが、お前、身一つで解放されてただろ。当然銀行に放置してきたバッグの中に、財布も家の鍵も入れっぱなし。違うか?」

「……違わないわ」

「だから迎えに来てやったんだ。ありがたく思え」

「どうもありがとう」

(すっかり忘れてたわ。あの刑事からせしめたお金で帰れても、立ち往生しちゃうじゃないの)

 笑みを深くして指摘してきた芳文に、貴子は全く反論できずにがっくりと肩を落とした。そんな二人の様子を見た立浪が、安心した様に話しかけてくる。


「宇田川さんの迎えが来ていると、加納局長から案内を頼まれてね。ちょっと不安だったけど、知人か恋人なんだね?」

 それに貴子が何か口にする前に、芳文が愛想を振り撒きつつ答えた。


「そうなんです。加納さんとはちょっとした知り合いで。こういう所は普段縁がないもので、口を利いて貰いました。お手数おかけしました」

「これ位何でもありません。宇田川さんは今日は大変でしたし、ゆっくり休ませてあげて下さい。それでは失礼します」

「ありがとうございました」

 立浪が何の疑念も持たない様子でその場を去ると、芳文は真顔になって貴子の手首を掴んで歩き出した。


「とっとと行くぞ」

「ちょっと待って。そっちはスタッフ用の通路で」

「大丈夫だ。一応パスを借りてる。急いで駐車場まで抜けるぞ」

「……何やってるのよ。大体おじさまとどういう知り合いなの?」

「詳しい話は後だ」

 空いている方の手で、ジャケットのポケットからテレビ局のスタッフ用パスを取り出した芳文は、器用に片手だけでそれを首から下げた。そして呆れる貴子には構わず時折すれ違うスタッフや社員に愛想を振り撒きつつ進み、社員用通路や階段を駆使して殆ど人目に触れる事無く地下駐車場まで到達する。

 目の前に見覚えのある白のマセラティ・クアトロポルテが現れた事で、貴子は幾分ホッとしたが、促されて急いでそれに乗り込んだ。そしてゆっくりと駐車場を出て公道にでた所で、進行方向からパトカーが数台向かって来るのが目に入る。


「ほら、頭を低くして隠れてろ」

 そう含み笑いで言われた事で、貴子は自分に後ろ暗い事がある事を、芳文が察している事が分かった。しかし相手がそれ以上何も言って来ない為、自分からは何も言わずに取り敢えず頭を低くしてやり過ごす。幸いパトカーは何事も無くすれ違って行き、上半身を起こした貴子に芳文が皮肉気な声をかけてきた。


「もう良いぞ? 怖い顔をしたおっさん達に、追われる気分はどうだ?」

「イケメンに追われるなら、嬉しいんだけど」

「ストーカーにしかならんから、止めておけ」

 芳文は小さく笑ってから、何を考えているのかそれきり喋らなくなり、少しして無言になった車内の空気に耐えられなくなった貴子が、徐に口を開いた。


「ねえ」

「何だ?」

「……お説教、しないの?」

 恐る恐る口にしてみた貴子に、芳文はハンドルを握りながら噴き出しそうな表情になる。


「そう言うって事は、自分がやった事の意味は正確に理解してるんだろうし、今更俺が小言を言っても意味ないだろ。それより腹は減ってないか? ここに来る途中のコンビニで、軽く買っておいた物が後部座席にある。食べたかったら好きにしろ」

「……いただきます」

 どうやら空腹は覚えていたらしい貴子が、後部座席の白いビニール袋を見て、神妙に頭を下げた。そして座席の間から身を乗り出して袋を取り上げ、早速おにぎりを食べ始める。

 ペット茶も飲みながら、時折ガサガサと音を立てている貴子の様子を、運転しながら横目で伺った芳文は、偶然彼女がどこからともなく取り出したスマホを、ビニール袋の中に突っ込む所を目撃した。しかし何食わぬ顔で視線を前方に戻し、気付かなかったふりをする。


(小道具の始末を考えてるのか? そうなるともう一軒寄るか?)

 その芳文の読み通り、少ししてから貴子が声をかけてきた。


「悪いけど、もう一度コンビニに寄って貰えない? ちょっと温かい物が飲みたくなったわ」

「そうだな。じゃあ寄るか」

 そして駐車場が無いコンビニの前の道路に停車し、芳文は彼女に千円札を渡した。


「俺はホットコーヒーな」

「分かったわ。ちょっと待ってて」

 そしてさり気なくビニール袋を手に、車から降り立った貴子は、それを入口付近に設置されていたゴミ箱に突っ込み、そ知らぬ顔で店内へと入って行った。


(めでたく証拠隠滅か? 勿体ない事をする。勿論、使い物にならなくなってるだろうが)

 そして小さく苦笑いした芳文は、珈琲を二つ持って帰って来た貴子を笑顔で出迎え、片方を受け取って再度自宅に向かって車を走らせた。


「じゃあ貴子、風呂を入れて、先に入っていて良いぞ?」

「そう? じゃあお先に」

 そして自宅マンションに帰り着いて早々、体よく風呂場に貴子を追い払った芳文は、独り言を呟いた。


「さて、あいつに連絡を入れておかないとな。苛々してると思うし」

 そして隆也と幾つかのやり取りを済ませてから、紅茶を淹れてカップ片手にソファーに座り、ニュース専門チャンネルで事件の続報が入っていないかチェックし始めた。そんな事をしているうちに、貴子が身体にバスタオルを巻き付けただけの姿で、リビングに戻って来る。


「上がったか」

「ええ、さっぱりしたわ。気分爽快よ」

「それは良かったな。ああ、着替えを出しておくのを忘れてた。今出すから」

「そんなのは要らないから、芳文もお風呂に入ってきて。私、ベッドで待ってるから」

 腰を浮かせかけた芳文を、貴子は隣に座りながら笑顔で制した。それを聞いた芳文が、途端に嫌そうな顔になる。


「生憎と、今夜はそんな気分じゃ無い。悪い事言わないから、さっさと一人で寝とけ」

 そんな事を淡々と言われた貴子は、驚いた様に目を見張った。


「はぁ? じゃあどうして私を、テレビ局までわざわざ迎えに来たわけ?」

「そりゃあ、理性ぶっ飛ばして暴走しっ放しの、馬鹿妹の回収?」

「グダグダ言ってないで、付き合いなさいったら!」

 茶化す様な物言いに完全に腹を立てた貴子は、両手で芳文の肩を掴んだと思ったら、勢いを付けて相手に伸し掛かった。当然芳文と貴子はソファーに重なって倒れ、女に押し倒された経験など滅多に無い芳文が苦笑を漏らす。


「おいおい、いきなり襲うなよ……」

 その呟きに貴子は勢い良く身体を起こし、芳文の腰に跨って見下ろしながら、憤然として怒鳴りつけた。


「以前だって似た様な事言ってたくせに、最後は散々してたじゃない! やる気が無いなら、その気にさせてやるわよ!」

 そう言って乱暴な手つきで自分のシャツのボタンを外し始めた貴子を見て、それに抵抗などはしないまま、芳文がどこかのんびりと声をかけた。


「あのな、貴子?」

「何よ? 女に手間かけさせるなんて、最低よね!」

「一応忠告しておくが、そろそろ止めておいた方が良いと思うぞ?」

「余計なお世話よ。黙ってて!」

 シャツのボタンを全て外し終えた貴子は、勢い良く前を肌蹴させてから、座る位置を太腿の方にずらしてベルトのバックルに手をかけた。


「そうか? でも、そろそろ来る頃だと思うんだよな」

「来るって、何が?」

 難無くバックルからベルトを抜き去り、芳文のスラックスのファスナーに手をかけた所で、ふと貴子は芳文の台詞の内容が気になった。そして思わず手を止めて自分の下の彼に問いかけると、玄関の方から何故か物音がしたと感じた瞬間、それが近付いて来たのを認識する。


「ああ、来たか?」

「芳文! 回収した馬鹿はどこだ!?」

「……っ!?」

 渡されている合鍵で前触れ無しに玄関から入り、ドアを開けてリビングに踏み込んできた隆也だったが、ソファーの上の光景を見た途端、無表情になって固まった。それは貴子も同様で、明らかに芳文を脱がせようとしている体勢のまま、動きを止める。

 そんな二人を交互に眺めてから、芳文は苦笑で貴子を指差しつつ、隆也に訴えた。


「おう、バッチリ確保しといたぞ。だけどこいつ、ちょっとばかり血の気が多くてな。責任持って相手してくれないか? もしくは、強制猥褻罪で逮捕するとか」

「……なん、で」

「確かに、無駄に元気そうだな」

 貴子が無意識に漏らした声に、隆也がすっと両眼を細めて反応する。その表情をまともに正面から見てしまった貴子は、弾かれた様に芳文とソファーから飛び降り、自分の身体を隠す様にソファーの背凭れの陰に回って、身体を丸めて蹲った。


(なっ、何でこいつがここに来るわけ? それに芳文と以前からの知り合いなの? これは一体、どういう事!?)

 完全にパニック状態になっている、ダンゴ虫状態の貴子を背凭れ越しに覗き込んでから、芳文は隆也に向き直って苦言を呈した。


「おい、隆也。あまり怖がらせるな。後が面倒だ」

「俺は別に」

「心臓が弱い奴なら、あの世直行の顔してるぞ? 俺は見慣れてるから、耐性が有るがな」

「……邪魔したな」

 不機嫌そうに低く呟いてあっさり踵を返した隆也を、芳文は追わずにその場で見送った。そして「やれやれ」と首を振りながら姿を消して一分後、手に何かの書類を持ってリビングに戻って来る。


「おい、貴子。怖い顔した野郎は帰ったぞ。風邪をひくから、さっさとベッドに行ってろ」

 ソファーを回り込んで未だ丸まっていた貴子に声をかけると、彼女はのろのろと体を起こした。


「何で……」

「あ? どうした?」

「何であいつと知り合いって黙ってたのよ!! 二人で今まで、私を騙してたわけ!?」

 恐怖心が何とか治まり、今度は怒りが込み上げて来たのか貴子が掴みかかってきたが、芳文はそんな非難はどこ吹く風で受け流した。


「別に、騙していたわけじゃないぞ? お前だって個人的に付き合いがある全員について、俺に話したりはしていないだろう? それに『榊隆也と知り合いじゃない』なんて嘘は言っていない。俺のガキの頃からの友人と、お前が偶々知り合いだったのが、たった今判明しただけだ。本当に世間ってのは、広い様で狭いよな」

「そんな詭弁、平気で口にしないで!」

「そんな事より明日の朝までに、これを頭の中に叩き込んでおけ」

 そう言って問答無用で押しつけられたホチキス止めの用紙を、貴子は怪訝な顔で見下ろした。


「何、これ?」

「俺とお前の、三年間の愛の歴史」

「はぁ?」

「波間に漂う愛の漂流者の小舟のお前を、いつも寛大な心で受け止める港が俺だ」

「…………頭、湧いてるの?」

 すこぶる真顔で言われた内容に、貴子は相手の正気を疑った。しかしここで芳文がいきなり貴子の肩を掴んでソファーの背面にその身体を押し付けながら、真剣極まりない表情で叱り付ける。


「冗談抜きで、お前はこれから重要参考人になる可能性すらあるんだよ! まさかこの期に及んで、自分がやった事の意味を、分かってないとは言わないよな!?」

「分かってるわ……」

「だから! 黒に果てしなく近いグレーのお前と、あいつが少しでも余計な係わり合いを持つと思われたら、あいつの経歴に傷が付くだろうが!? そんな事は俺が許さん!! 万が一、お前があいつの足を引っ張る真似をしようものなら、あいつの代わりに俺が今すぐお前を埋めやるからそう思え!!」

「…………」

 本気でしかありえないその発言に、貴子は目の前の人物が、隆也の真の友人だと悟った。それと同時に今現在の自分の立場も、正確に再認識する。


「ちゃんと理解したか?」

「……ええ」

「じゃあさっさとベッドに入って、それを頭に叩き込みつつ、一人寝してろ。俺は色々忙しいんだ」

 そしてゆっくりと立ち上がった貴子は、かなり乱暴にリビングを叩き出され、よろめきながら寝室へと入った。しかしベッドまで行かずに、ドアのすぐそばで床にへたり込む。


「……覚えなきゃ」

 何分かそのままの体勢で呆けていた後、貴子は床に落ちた用紙を引き寄せ、自分自身に言い聞かせる様に呟き始めた。


「明日の朝までに、ちゃんと……。あいつはあのろくでなしとは違って、ちゃんとした優秀なキャリア官僚なんだもの。変な傷が付いたら、今後の出世に響く……。あいつと私は、無関係なんだから」

 そこで先程の隆也の表情を思い出してしまった貴子は、両眼から涙を溢れさせた。


「本気で、怒ってた……。絶対、愛想尽かされた……」

 そう口にした瞬間、無意識に手がその下の用紙を握り締める形になり、いびつな形に丸まった。更に滴り落ちた涙で用紙が酷い事になったが、貴何とか気を取り直し、それを広げつつしわを伸ばす。


「ふぇっ……、っぅ……、ぜっ、絶対っ……、お、覚えるんだからぁっ……。明日……、警察、行くしっ……」

 そしてすすり泣きの合間に、書かれた内容をぶつぶつと呟きながら暗記を始めた貴子の様子を、ドア越しに確認した芳文は、静かにその場から離れた。


「全く……。頭は良いのに、底抜けの馬鹿だよな……」

 そして困った様にがしがしと頭を掻きながら廊下を移動し、時間が時間だから戸締まりを確認しようと、何気なく玄関に足を向けた。


「うん?」

 そこでシューズボックスの上に、無造作に置かれている封筒に気が付いた芳文は、その中身を確認して渋面になった。そして早速、隆也に電話をかける。


「おい、隆也。玄関に置いてあったのは、何のつもりだ?」

「迷惑料だ」

 打てば響く様に返された言葉に、芳文は皮肉っぽく言い返す。


「俺とお前の仲で、今更そんな物必要無いだろ?」

「それと……、暫くあいつが世話になるだろうし、生活費と衣類その他の購入費に充ててくれれば……」

 今度は言葉を濁しながら告げてきた親友に、芳文は完全に呆れ果てた。


「あいつの事で、俺が金を出すのがそんなに気に入らないか? ちゃんと本人の前でそう言えよ。心配して慌てて来てみれば、男を押し倒してる真っ最中で、腹が立ったのは分かるがな。鬼の形相で威嚇しなくても良いだろ」

「その金の事は、あいつに言わなくて良い。それから、お前の名前で弁護士を手配した」

 強引に話を変えてきた隆也に、芳文は内心(困った奴だ)とは思ったものの、素直に話に乗る事にした。


「随分、手回しが良いな」

「早速明日、お前かあいつに、連絡か接触がある筈だ」

「了解。さぞかし優秀なんだろうな?」

「親父の事務所でピカイチの、刑事事件専門のヤメ検だ。依頼人はお前になってるが、費用は俺が全額負担する」

 もう皮肉を言う気力も無く、芳文はげんなりとして感想を述べる。


「……お前も大概、阿呆だよな」

「切るぞ」

「じゃあな」

 互いにこれ以上の議論は無駄と割り切った二人は、いつもの調子であっさり通話を終わらせた。そして芳文は再びソファーに深く腰掛け、薄笑いをしながらひとりごちる。


「さて、忙しくなりそうだ。久々に男に纏わりつかれそうだしな」

 そううそぶいた芳文は、封筒の中から一万円札の束を取り出して枚数を数え始め、一人不敵な笑みを零した。



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