花火の音
城崎温泉。
平安時代から千三百年の歴史を持つ、二本でも有名な温泉地だ。
さて、温泉、とくれば、旅館と続くのはおかしなことではないだろう。
温泉で疲れを癒した後は、ぐっすりと眠りたくなるのが人情だろう。
とにかく、城崎には、温泉も多いが、旅館も多いのだ。
さて、というわけでここは城崎にある、小さな旅館、「梓屋」。
その玄関の前を、箒で掃いている青年がいた。
「…休ませてください」
「バイト代出してるんだから、ちゃんと働きなさい?」
どうせ暇なんだし、と失礼極まりない発言をされるが、否定できないので黙秘した。無言で足元を掃く。
「それ終わったら、買い出しお願いね」
「いやホント休憩させてください」
振り向くが、言い放った当人はさっさと旅館内に入っていっていた。綺麗な黒髪を靡かせて歩くその後ろ姿を見て、はあ、と溜息が出た。
彼、小日向鷹人は大学二回生だ。大学も夏季休暇に入り、一人暮らしなのもあって暇だった。時間を持て余していた。だがしかし。
「…だからって馬車馬のごとく働かせるなよ」
朝の五時起床に始まり、現在十一時まで、働きづめである。これだけ働かされれば誰でも文句が口から出る。確かに時間に余裕はあるが。
ズシ、と重さを主張する買い物袋をぶら下げ、旅館までの道を歩く。
「買い出し行ってきましたー」
玄関から入り、そのまままっすぐ厨房に向かう。
「お疲れさん」
「うん、本当に…」
顔を出した板前さんに買い物袋を手渡し、肩をぐるりと回す。ゴキゴキという小気味いい音がした。
「じゃあ板さん、俺行くから。他にも何かある?」
「今のとこないなぁ、後で頼むわ」
「ん」
まだ鳴っている肩を回しつつ、厨房から離れ、自分に割り振られている部屋に向かう。
階段を上り切ったところで、声をかけられた。
「あ、おかえりなさい。じゃあ次ね」
「いや真面目に休ませてください」
声をかけてきた女性は、この「梓屋」の若女将、梓庵だった。
「若人が何言ってるの」
「何時間労働してると思ってんですか、庵さん…」
庵の言葉を聞き流しつつ、鷹人は、一番忙しい夕飯時までは寝てやると心に決めて、早足で部屋に向かった。
そもそも、なぜ鷹人が、実家があるわけでもない城崎の旅館で働いているのか。
その原因は、彼女だったりする。
「…ちょっと後悔してます」
「一週間やそこらで何言ってんの」
部屋にまで着いてきた庵をいなしつつ、鷹人は頭を掻いた。
「あんなに働かされるとは思っていませんでしたよ…」
「だって若い人、いないもの。働いてよ、体力有り余ってるでしょ?」
「庵さんも若い人だと思います」
「若くないわよ、何言ってんのよ、こんなおばさん捕まえて」
笑いながら肩を叩かれ、まだ二十代のはずだけど、の鷹人は思った。確かに、前半と後半とでは、ニュアンスがかなり変わるが。いや、別に彼女は後半でもないけど。
「女の子に働かせる気?」
「…女の子って年じゃなあがががが」
「…何か、言った?」
頭部にアイアンクロー。理不尽極まりない。年齢の話振ったのはそっちだろうに。などど考えることができたのは、頭蓋が軋む音がするまでだった。
「何にもないです…」
「…ま、いいけどね」
ぱっ、とあっさり解放された。
その場に膝をついて、くらくらする頭を振る。そんな鷹人を見下ろしながら、庵は言う。
「鷹くんが悪いよ」
「最初に振ったのはそっちでしょう、庵さん…」
はあ、と溜息をついて鷹人は立ちあがった。そのまま、庵の元へ歩いていく。
「仮にも彼氏にこの仕打ちはないでしょう」
「お客さんを変な目で見てるのが悪い」
「見てません」
「あと仮にも、とかつけちゃうのも嫌」
「学生と美人若女将じゃ釣り合ってません」
「関係あるの?」
「あるでしょ…」
簡単に結論だけ言ってしまえば、この二人、恋人同士なのだ。
元々は、サークルで一年間だけ、先輩後輩として付き合っていたことから始まった。
お人よしな鷹人と、何でも楽しくやる庵。
サークルの人間たちの性格というか、後押しもあって、恋人同士になったのが、今年の年明け。
話していると別の短編が一本書き上がるので割愛するが。
まあはっきり言ってしまえば、恋人に手伝いを頼まれ、鷹人は結局断り切れず、手伝うことになったのだ。
「…まあ、いいよ」
「はあ」
「その代わり、温泉の掃除よろしくね」
「ちょっ」
鷹人が顔をあげた頃には、庵はもう部屋にいなかった。
あまりにも傍若無人な若女将な恋人に、鷹人は、がっくりと首を落とした。
「もう休みますからね」
「もう少しだけ頑張って」
流石に昼休憩はあったが、その後は文字通り馬車馬の如く働かされ、鷹人は疲れ果てていた。体力的にはともかく、心が疲れていた。
「…って、なんかお客さん、出てってません?」
「うん? ああ、そうだろうね」
客がぞろぞろと出ていくという光景は、それなりに異様である。この「梓屋」、小さいながらも親身な接客と、美人な若女将の人気も手伝い、城崎でもそれなりに繁盛している旅館である。そんな人気の旅館から、客が示し合わせたように出ていくというのは、経営者の目から見てマズいことなんじゃないか、と鷹人は思ったのだが、当の経営者である若女将は、別段何も感じていないようだ。
「…なんでですか?」
「え? …あー、そっか。鷹くんは城崎が温泉地だってことも知らないで来たのよね…」
困った風な笑みを浮かべて、庵は鷹人の顔を見上げる。鷹人が下駄を履いている分、頭一つ以上差がある。
「花火よ、花火」
「花火?」
そう、と言って、庵はその場でくるり、と回る。
「お祭り!」
城崎は、毎年夏になると、一カ月近く、花火大会を開催するらしく、この時期に観光客が増えるのも、そのためだろう。そしえて、丁度今日から始まるらしい。
花火をいい場所で見ようと思えば、そりゃあ屋内よりは屋外のほうがいい。だから、「梓屋」の客たちは、ぞろぞろと旅館から出て行っていたのである。
「おー、林檎飴あるよ。買って?」
「…いや、まあいいですけど」
懐から財布を取り出し、林檎飴を一つ買う。手渡されたそれを、そのまま庵に渡す。
「どうぞ」
「ありがと」
はむ、と林檎飴にかぶりついた。その姿は、淡い黒と、色鮮やかな模様の浴衣も手伝い、可愛らしく見えた。
「…で、何で連れて来たんですか?」
「んむ?」
「林檎飴食ってからにしてください」
歩きながら、しゃくしゃくと飴を食べている庵の隣に並ぶ。
「食べ終わりました?」
「…、うん、それで?」
「なんで連れて来たんですか?」
「一緒に行きたかったからよ、鷹くんと」
「いや、それ自体は嬉しいですけどね」
問題はそこではなくて。
「俺仕事あるんですが」
「一週間ほど詰め込んだから、二、三日大丈夫よ」
まああれだけ詰め込めばやることなくなるだろうとは思う。元々、そんな大きな旅館でもないし。
「…まあ、後で詳しく聞きますけど…庵さん」
「うん?」
林檎飴は食べ切ったのか、串を手の中で弄っていた。手近なゴミ箱に投擲する。
「よし入った」
「入りましたね。いやそうじゃなくて」
「うん?」
ようやく鷹人のほうを振り返った庵は、歩きながら鷹人を見る。
「どこ行くんです?」
「内緒」
鷹人は、ふう、と息を吐き出した。
花火大会に連れてこられてから、ずっと歩き続けている。どこへ行くのか聞いても、庵はしゃべってはくれない。
「もうすぐよ」
「ならいいですけど」
後頭部をかきつつ、鷹人は、庵の後ろをつかずはなれずに歩く。
いくらか歩いて、少し開けた場所についた。と、突然静かになったように感じた。周囲を見回すと、屋台も、観光客もいなかった。人が少なくなったから、静かに感じたのだろう。
「ここですか?」
「うん。もうちょっと待って」
は、と聞き直す間もなく、ドーン…、と、爆発する音が聞こえた。見上げると、花火が打ち上がっていた。
「おー…」
「よく見えるでしょ。ここあんまり人に知られてないのよね」
ドーン…、と、また花火があがる。
それを見上げながら、庵はベンチに腰掛けた。鷹人も、同じように腰掛ける。
「庵さん?」
「何?」
端に座った鷹人の隣に、庵が座っていた。彼女は、確か真ん中あたりに座っていたのだが。
「近いです」
「問題でも?」
「いえ、ないですけど」
ドーン…、と今度はさっきより小さい花火があがった。少ない代わりに、数多く打ち上げられている。ドーン、ドーン…
「庵さん」
「うん?」
「ひょっとして、この日のためにあんな無理に仕事させたんですか?」
「そう言ったでしょ?」
「…いや、なんで?」
鷹人の言葉に、庵は楽しそうに笑って。
「一緒に見たかったからよ、君と」
「…勘違いしちゃいそうな台詞やめてください」
「いいじゃない、別に勘違いじゃないんだし」
クスクスと笑う庵の姿が、妙に腹立たしくて、鷹人は思わずデコピンした。
「痛い」
「笑わないでください。つーか、学生からかわないでください」
「本当のことでしょ?」
「…そうですけどね」
笑われると、やっぱり腹立つんですよ、と前置きして、鷹人は未だに笑う庵の唇をふさいだ。
【終】