序章
「あんたを見てると、ホントムカつく」
振り向くと彼女にそう言われた。
彼はそんな言葉を受けて何を思ったのか、優しく微笑んだ。
授業も終わり、帰りのSHRも終わり、校内には生徒は殆ど残っていない。少し薄暗くなった空が、窓の向こうに寂しく見えるだけだ。
「−−−それが、ホントにムカつくんだよ」
彼女は彼の笑顔を見ると、吐き捨てるように言った。
「いつだって、馬鹿みたいにヘラヘラ笑って。殴られたって蹴られたって何も言わない。そんなあんた見てると、泣かせたくなる。顔がグシャグシャになるぐらいに泣かせたい。怯える顔が見てみたい。叫ぶように助けを呼ぶ声を聞いてみたい」
続けざまに言われた言葉に少し驚いた表情を見せると、やっぱり笑った。どこか優しげで、とても寂しげな微笑みだった。彼の顔や制服から伸びた長い両腕には、先程受けた暴力のあとが目立っていた。
「−−−どうしても僕を泣かせたいなら、さ」
ゆっくりと彼は口を開いた。彼女は、驚いて目を見開く。まさか彼が自分に話し掛けてくるとは思っていなかった。静かに彼の目を睨みつけて、次の言葉を待つ。
「……優しくしてみせてよ」
囁くような呟きに、最初は耳を疑った。
その微笑みはやはり寂しかった。その笑顔はやはり優しかった。あの呟かれた言葉は、零れた落ちる涙のようだった。彼は辛かったのか。彼は涙を堪えていたのか。彼はただ、意地を張っていただけなのか。考えを巡らせていた彼女は、彼の次の言葉はに息を詰まらせた。
「例えば殴られたとき、ただ、優しく撫でてくれればいいんだ。蹴られたときは寄り添ってくれるだけでいい。何か酷いことを言われたときも、黙って僕の傍に居てくれれば。きっと君にそんなことをしてもらえたら、僕は嬉しくて泣いてしまうから」
ああ、さっきのあれは錯覚だったんだな。彼女は感じた。彼の顔には、寂しさなんてなかった。辛さなんて何にもなかった。ただ、嬉しそうな笑顔だった。優しい笑顔だった。
「ふざけんなよ」
「ふざけてないよ」
間髪入れずに言葉を返すと、廊下の端に落ちている鞄を掴んで歩き出した。数歩歩むと思い出したように振り返り、今まで見たことのない眼差しで彼女を見つめる。
「−−−でなければ、僕は泣かない」
感じたことの無い感情だった。やっぱりあんたはムカつくよ。もう振り返らない背中に向かって呟いた。
「絶対泣かせてやる」
絶対に。それが彼の言った方法でなくても。傷だらけの背中に独りで誓った。
誰も居なくなった校舎を、夕焼けが寂しく照らしていた。