何もない日
3月にしては雨の多い最終週前の月曜日だった。
閉め忘れたカーテンの隙間から差し込む日差しの所為でいつもより1時間も早く目を覚ましてしまった。フローリングから細く伸びて突き当りの壁を這いあがり天井まで届いた光の間を通りかかった埃が深海に沈むプランクトンの死骸のように一瞬だけ白い光を纏ってすぐにまた深い紺色の中へ消える。上半身を起こして自分の頭の重さにうなだれてまだ精彩を欠く視界と曇った頭でぼうっとしていると、パジャマ代わりの長袖シャツ越しに背中にひんやりとした感覚が広がり始めて、再びベッドに仰向けに倒れこんだ。眠っている間に枕の位置がずれていたようで、顎を引いたような状態になって少し苦しくなって、その間に二度寝に使う眠気が引いてしまった。仕方なく布団から足を出して指先が床に触れる。不意に高校時代の光景が脳裏に無駄に鮮明に蘇ってきた。
靴を脱いで靴下のまま廊下を歩いて見つからないように教室へ向かう。7月の定期テスト前の休みで全校生徒が部活動も含めて強制的に下校させられた翌日の誰もいない学校に忘れ物を取りに忍び込んだのは、同級生の木山がスマホを教室の机の中に忘れて、それを取りに行くというミッションへの同行が理由だった。もともとはコンビニへスナック菓子と炭酸を買いに家を出ただけだったのだが、歩いて5分のコンビニへ向かう途中、郵便局の角を曲がったところで制服姿の山下と鉢合わせた。山下は私の顔を見るなりなんとも言えない顔で視線を逸らして歩き出そうとしたのでどうした?と声をかけると観念した様子で胸の中にため込んだ空気をすべて吐き出すほど深いため息をついて、事の次第を簡潔に伝えた。すでに見つかって教師の机の引き出しの中では?と安直な想像を伝えたが、木山は一縷の望みをかけてこのミッションへ挑戦すると言うので、暇を持て余していた私は面白半分に動向を申し出たのだった。
二つ返事で拒否されたが、無視してついて行った。
理由は明快、私はその学校の生徒ではないからだ。
ローカットのコンバースは底のワッフルのような模様の踵と前川の真ん中あたりの溝が薄くなっていて、普段どこに重心を置いて歩いているかがわかるなぁなどとどうでもいいことを考えていると、慣れた様子で裏門に足をかけて向こう側へ飛び降りた山下が振り返らずに歩き出したので、私は真似をして足をかけて門の向こうへ飛び降りた。
「マジでついてくんなって。つか、あたしは生徒だけどあんたただの不法侵入だからね?」
「山下に脅されて仕方なくって言うから大丈夫」
「帰れ」
山下とは小学校からの馴染みだった。友人と呼んでも差し支えはないだろうとは思うが、山下も私も友情というたぐいのものにあまり好印象を抱いてはいなかった。
「そういうの、なんか気色悪いんだよな」
耳が出る程度の髪型で寝ぐせも気にしない性格で、すらりと細長い手足で小さな頭に対して野生のネコ科の動物のような目尻の切れ長な眼はまるでデザインされたマネキンのように均整がとれていた。
その見た目は目を引き、外見に魅かれた生徒が親睦を深めようと集蛾灯に集まる虫のように集まった同級生に、山下は一切の愛想を振りまくことなく無視を決め込んだ。
結果、一部の生徒に目を付けられることになった。そんなタイミングで私が転校してきた。
話すようになったきっかけはよく覚えていないが、生徒指導室や校長室によく呼び出されていたので、何かしらの問題行動を起こしていたのだろう。
飲酒や喫煙の濡れ衣を着せられたりしたような気もするが、それもあまり長くは続かなかった。山下は自分には興味はないが、特定の他人へ危害が及ぶことを好まない性格だった。
というよりも、許さない性格だった。
私に関する卑猥な噂が流れたその日、学校では殆ど口を開かなかった山下が机を蹴り飛ばして低い声で吠えた。
「黙れ、殺すぞ」
それだけで私や山下に関わろうという生徒はおろか教師も形式的な口頭での注意のみになった。山下は人間の決めたヒエラルキーではなく、生態系ピラミッドの上位にいるものというような対象になっていたのだと感じた。
私は生まれつき空気というものが理解できず、親族からも頭のネジが数本足りないとよく言われていたので、そういう本能的に回避すべき感覚がなかったことが、今まで山下と友人のような距離感で居られる所以だったのかもしれない。
卒業後、山下とは一度も会っていない。
そもそも会うのは学校だけだったので、連絡先の交換もしていなかった。
交換しない距離感が、心地よかった。
カーテンを開けると目の前が一面真っ白になった。目が慣れると塗りつぶしたような青空に、部屋の隅にたまった埃の取り残しのような雲が電線を取り払われた後も解体されずに放置されている鉄塔に引っかかるようにぽつんと残されていた。
不意にインターホンが鳴り、そういえばふいに割ってしまったマグカップの代わりのものをネットで購入したのを思い出した。配達指定はしていないが、大学を卒業してから何もせず無職引きこもりの生活だったので不都合な時間はなかった。カードは残高を使い切って止まっていたので着払いにしたことを思い出し、渋々ゴミ袋の並んだ廊下を歩いてドアを開けると、配達員のユニフォームが目に入った。
「久しぶりだな、玉木」
顔を上げると野生のネコ科の動物のような目尻の尖った瞳と目が合った。
「山下?なにやってんの?」
それはこっちのセリフだというのも面倒な様子で、3年ぶりに再会した山下は胸の中の空気を吐き出すように深く大きいため息を吐いた。




