9話 レシートを確かめる女
夜のバーは、音が少ない。 氷が触れ合う音と、グラスを拭く布の乾いた摩擦音だけが、澱んだ店内の空気をかき混ぜている。
その女が来たのは、雨上がりの深夜だった。 ドアが開く音に顔を上げると、細身のベージュのコートを着た女が立っていた。二十代後半か、三十代前半。派手さはないが、彫刻のように整った顔立ちが、地下の薄暗い照明に不自然に浮き上がって見えた。
目が合うと、彼女は感情を読み取らせない笑みで軽く会釈をした。
「いらっしゃいませ」
女は迷うことなく、カウンターの端に腰を下ろした。 いつもなら、霊感を通じて客の「喉の渇き」や「苛立ち」が伝わってくるものだが、彼女からは何も流れてこない。凪いだ海のような、静かすぎる気配。
「……カシスオレンジ、お願いします」
少し考えるように視線を落としてから、彼女は言った。 バーで注文するにはあまりに幼い選択。だが、その声はひどく落ち着いていて、甘い酒を求める者の浮ついた響きは一切なかった。
俺は酒を作りながら、さりげなく女を観察した。 携帯はテーブルに出さない。バッグも開けない。 ただ、店内をゆっくりと、検品でもするかのような冷めた目で見渡している。
差し出したグラスを、彼女は一口だけ飲んだ。
「美味しいです」
それきり、彼女はグラスに手を付けなかった。 時間を潰すような仕草も、誰かを待つ焦りもない。 ただ、そこに「存在している」という事実を刻みつけるように、背筋を伸ばして座っている。
閉店まで一時間ほどになった頃、女はようやく口を開いた。
「このお店、何時まで開いてます? 正確には、何時何分まで」 「……今日は二時までですね。ラストオーダーは三十分前ですが、二時まではここにいます」 「そうですか。二時まで……」
彼女は残っていた酒を一気に飲み干し、事務的なトーンで言った。
「お会計、お願いします」
レジで会計を済ませると、彼女はレシートを両手で受け取った。 その瞬間、彼女の指先がわずかに強張ったのを、俺は見逃さなかった。
店名、日付、時刻、商品名。 彼女はそれを、穴が空くほど見つめた。まるで、そこに記された「数字」こそが自分の命綱であるかのように。
「ありがとうございました」
女はもう一度だけ頭を下げ、夜の街へと消えていった。
変な客だ、と俺は思った。霊感に何も映らないほど、自分を「無」にしている人間。 次の日も、その翌日も、彼女は同じ時間に来た。 同じ席に座り、同じカシスオレンジを頼み、同じように閉店間際のレシートを、祈るように持ち帰る。
三日目、彼女が帰った後のカウンターを拭きながら、俺は奇妙な違和感に気づいた。 彼女が座っていた場所だけ、指紋一つ、髪の毛一本すら落ちていなかった。
四日目、彼女は来なかった。
その週末、休憩中にニュースを見ていた俺の指が止まった。
『――◯日未明、都内の路上で女性が刺殺されているのが発見されました』
画面の隅に流れるテロップ。事件推定時刻は、あの女が最後に店に来た日の、翌日の深夜二時。 場所は、この店から歩いてすぐの路地裏だった。
「偶然だ」
俺は自分に言い聞かせるように、カウンターを強く拭いた。 似たような女性の被害者なんて、この街にはいくらでもいる。 だが、あの女がレシートの「時刻」を何度も確認していた姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
あの人は、酒を飲みに来ていたんじゃない。 あの日、あの時、自分はここに「いた」という完璧な証拠を手に入れるために……。
だとすれば、彼女が守りたかったのは、自分自身の「無実」だろうか。 それとも。
「二時までは、ここに……」
自分の呟きが、ひどく冷たく響いた。 もし彼女が「犯人」だとしたら、俺は彼女に最高の凶器を渡してしまったのかもしれない。
『二時ちょうど』に、店を出たという、汚れない証明書を。




