8話 執着
その夜、ホストの男は久しぶりに明るい顔で店に現れた。 シャツの襟元は整い、目の下に張り付いていたドブ色の隈も消えている。
「最近、よく眠れるんです」
差し出したグラスを受け取り、男は笑った。それは、この店で彼が見せた初めての、作り物ではない笑みだった。
「変な夢も見なくなりました。鏡の中に自分が立っていることもない。……部屋も、もう散らかりません」
俺は何も聞かなかった。 聞かないほうがいい夜だと、バーテンダーとしての本能が告げていたからだ。
「彼女は?」
それでも、最後に一度だけ尋ねた。 男は少しだけ考えた。あの日、記憶をかき回されていた時とは違う、落ち着いた動作で。
「……亡くなっていたんです。事故だったそうです」
男の声に、無理な力みはなかった。
「あの日、ここで一緒に飲んだ後、ずっと連絡が取れなかったのはそのせいでした。実家の方とようやく話ができて……。葬儀で顔を見て、ちゃんと線香をあげたら、なんだか憑き物が落ちたみたいに体が軽くなったんですよ」
男は残りの酒を飲み干すと、軽やかに立ち上がった。
「ありがとうございました、春樹さん。また、仕事頑張れそうです。今度は指名の女の子でも連れてきますよ」 「ええ、また。お気をつけて」
ドアに向かう男の背中を見て、俺はようやく「違和感」が消えたことに気づいた。 店の中が、ちゃんと一人分、軽い。 霊感というフィルターを通しても、彼を蝕んでいたドロドロとした澱みはどこにも見当たらない。
男がドアを開ける。 外のネオンが一瞬だけ、彼の影を店内の床へと長く引き延ばした。
その時だった。
男の足元から、影が二つに分かれて伸びた。 一つは、本人のもの。 そしてもう一つは――一拍遅れて、ヌルリと這い出してきた。
黒いワンピースを着た、女の形をした影だ。 顔は見えない。だが、輪郭だけは以前よりもずっと鮮明に、濃くなっている。 影は何も触れず、声も出さない。 ただ、男の真後ろにピタリと張り付き、彼と同じ速度で、同じ歩幅で、一歩も離れずに夜の街へと踏み出していく。
男はそれに、死ぬまで気づかないだろう。 死んだことで物理的な距離を失った彼女が、今や彼の「影」そのものに成り代わったことに。
ドアが閉まる。 ネオンが遮られ、影も外へと消えた。 店に残されたのは、耳が痛くなるほどの完全な静けさだった。
閉店後、俺はカウンターを拭いた。 端の席。あの女が座り、そして生霊が座り、一度も「生きた人間」として馴染むことがなかった場所。 そこだけが、氷を置いたように冷たい。
注文票は増えていない。コースターも余っていない。 レジの数字も、酒の在庫も、すべて完璧に帳尻が合っている。 それが、何よりも怖かった。
夜の街では、助かったと思い込んでいる人間と、帰る場所を失ったモノが、別々に歩くことがある。 同じ道を。同じ距離で。 決して振り返らない限り、隣にいる絶望に気づくことはない。
俺は、何も言わずにグラスを伏せた。




