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バーテンダー春樹の苦悩  作者: 道雪ちゃん


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8/21

8話 執着

その夜、ホストの男は久しぶりに明るい顔で店に現れた。  シャツの襟元は整い、目の下に張り付いていたドブ色の隈も消えている。


「最近、よく眠れるんです」


 差し出したグラスを受け取り、男は笑った。それは、この店で彼が見せた初めての、作り物ではない笑みだった。


「変な夢も見なくなりました。鏡の中に自分が立っていることもない。……部屋も、もう散らかりません」


 俺は何も聞かなかった。  聞かないほうがいい夜だと、バーテンダーとしての本能が告げていたからだ。


「彼女は?」


 それでも、最後に一度だけ尋ねた。  男は少しだけ考えた。あの日、記憶をかき回されていた時とは違う、落ち着いた動作で。


「……亡くなっていたんです。事故だったそうです」


 男の声に、無理な力みはなかった。


「あの日、ここで一緒に飲んだ後、ずっと連絡が取れなかったのはそのせいでした。実家の方とようやく話ができて……。葬儀で顔を見て、ちゃんと線香をあげたら、なんだか憑き物が落ちたみたいに体が軽くなったんですよ」


 男は残りの酒を飲み干すと、軽やかに立ち上がった。


「ありがとうございました、春樹さん。また、仕事頑張れそうです。今度は指名の女の子でも連れてきますよ」 「ええ、また。お気をつけて」


 ドアに向かう男の背中を見て、俺はようやく「違和感」が消えたことに気づいた。  店の中が、ちゃんと一人分、軽い。  霊感というフィルターを通しても、彼を蝕んでいたドロドロとした澱みはどこにも見当たらない。


 男がドアを開ける。  外のネオンが一瞬だけ、彼の影を店内の床へと長く引き延ばした。


 その時だった。


 男の足元から、影が二つに分かれて伸びた。  一つは、本人のもの。  そしてもう一つは――一拍遅れて、ヌルリと這い出してきた。


 黒いワンピースを着た、女の形をした影だ。  顔は見えない。だが、輪郭だけは以前よりもずっと鮮明に、濃くなっている。  影は何も触れず、声も出さない。  ただ、男の真後ろにピタリと張り付き、彼と同じ速度で、同じ歩幅で、一歩も離れずに夜の街へと踏み出していく。


 男はそれに、死ぬまで気づかないだろう。  死んだことで物理的な距離を失った彼女が、今や彼の「影」そのものに成り代わったことに。


 ドアが閉まる。  ネオンが遮られ、影も外へと消えた。  店に残されたのは、耳が痛くなるほどの完全な静けさだった。


 閉店後、俺はカウンターを拭いた。  端の席。あの女が座り、そして生霊が座り、一度も「生きた人間」として馴染むことがなかった場所。  そこだけが、氷を置いたように冷たい。


 注文票は増えていない。コースターも余っていない。  レジの数字も、酒の在庫も、すべて完璧に帳尻が合っている。  それが、何よりも怖かった。


 夜の街では、助かったと思い込んでいる人間と、帰る場所を失ったモノが、別々に歩くことがある。  同じ道を。同じ距離で。  決して振り返らない限り、隣にいる絶望に気づくことはない。


 俺は、何も言わずにグラスを伏せた。

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