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バーテンダー春樹の苦悩  作者: 道雪ちゃん


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7/21

7話 執着

その日は、あのホストの男が一人で店に現れた。  数日前よりも頬がこけ、スーツの肩のあたりが心なしか浮いている。


「こんばんは。今日は……お連れ様は?」


 俺の問いに、男はグラスの縁をなぞりながら、絞り出すような声で答えた。


「……連絡が、取れないんです」 「彼女とですか?」 「ええ。あの日、ここで別れてからずっと。電話も出ないし、ラインも既読にならない。彼女の家にも行ってみたんですが、何度インターホンを押しても反応がなくて。……でも、確かに中に『誰か』がいる気配だけはするんです」


 男はそう言って、震える手でタバコを咥えた。  彼女のことを忘れたわけじゃない。むしろ、彼女の顔も、あの日着ていたワンピースの質感も、驚くほど鮮明に覚えている。覚えているからこそ、繋がれない現実が彼を追い詰めていた。


「それで、寝不足なんです。……夢に、自分が出てくるんですよ」


 男は力なく笑ったが、その目は笑っていない。


「俺のすぐ後ろに、俺自身が立っているんです。外側から自分をじっと見つめている。何をするわけでもない、ただ、冷たい視線だけを背中に刺してくるんです」


 氷が、静まり返った店内に小さく響いた。


「部屋も、おかしいんです。ちゃんと片づけて出勤するのに、帰宅すると見覚えのないコップが流しにある。使った覚えのない灰皿が、テーブルの真ん中に置いてある。まるで、俺がいない間に、なにかがここにいたみたいな」


 鍵はかけている。侵入された形跡もない。ただ、自分ではない誰かが、あるいは「自分だったはずの何か」が、部屋の中によどみを残していく。


 俺は男の影に目をやった。  霊感のフィルターを通した彼の影は、驚くほど薄い。  照明が当たっているはずなのに、地面に落ちた輪郭はぼやけ、今にも消えてしまいそうだった。この男の存在そのものが、現実から少しずつ剥離し始めている。


「ここに来ると、少し楽なんです。……『あいつ』に、何もされないから」 「何か、されているんですか」


 男は答えなかった。代わりに、彼はカウンターの端をじっと見つめた。  あの日、あの女が座っていた場所。


「彼女、今もあそこに座ってる気がするんですよ。……連絡は取れないのに、視線だけはあそこから届いてる気がして」


 男はグラスを空にすると、ふらつく足取りで立ち上がった。


「また、来ます。……次は、彼女を連れてこれたらいいな」


 帰り際、彼はドアの前で一度だけ振り返った。


「春樹さん。俺、何か大切なことを忘れてますか?」


 俺は答えなかった。答えれば、彼の均衡が完全に崩れてしまう気がしたからだ。


 ドアが閉まった瞬間だった。  カウンターの端で、ギィ、と椅子が低く軋んだ。


 見えない。何も見えないが、そこには確かに重みが加わった。  誰かが、そこに腰を下ろした音。  俺は、そこを拭くことができなかった。あの日、彼女のグラスを洗えなかった時と同じ、正体不明の拒絶反応が体を縛る。


 その夜の閉店後。  掃除をしていた俺の手元に、見慣れないライターが落ちていた。  安っぽいが、使い古された金属の感触。  俺の、そして店長やバイトの私物でもない。


 火を点けてみると、小さな炎が一瞬だけ揺れ、すぐに吸い込まれるように消えた。  まるで、誰かの「吐息」で吹き消されたかのように。

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