7話 執着
その日は、あのホストの男が一人で店に現れた。 数日前よりも頬がこけ、スーツの肩のあたりが心なしか浮いている。
「こんばんは。今日は……お連れ様は?」
俺の問いに、男はグラスの縁をなぞりながら、絞り出すような声で答えた。
「……連絡が、取れないんです」 「彼女とですか?」 「ええ。あの日、ここで別れてからずっと。電話も出ないし、ラインも既読にならない。彼女の家にも行ってみたんですが、何度インターホンを押しても反応がなくて。……でも、確かに中に『誰か』がいる気配だけはするんです」
男はそう言って、震える手でタバコを咥えた。 彼女のことを忘れたわけじゃない。むしろ、彼女の顔も、あの日着ていたワンピースの質感も、驚くほど鮮明に覚えている。覚えているからこそ、繋がれない現実が彼を追い詰めていた。
「それで、寝不足なんです。……夢に、自分が出てくるんですよ」
男は力なく笑ったが、その目は笑っていない。
「俺のすぐ後ろに、俺自身が立っているんです。外側から自分をじっと見つめている。何をするわけでもない、ただ、冷たい視線だけを背中に刺してくるんです」
氷が、静まり返った店内に小さく響いた。
「部屋も、おかしいんです。ちゃんと片づけて出勤するのに、帰宅すると見覚えのないコップが流しにある。使った覚えのない灰皿が、テーブルの真ん中に置いてある。まるで、俺がいない間に、なにかがここにいたみたいな」
鍵はかけている。侵入された形跡もない。ただ、自分ではない誰かが、あるいは「自分だったはずの何か」が、部屋の中に澱を残していく。
俺は男の影に目をやった。 霊感のフィルターを通した彼の影は、驚くほど薄い。 照明が当たっているはずなのに、地面に落ちた輪郭はぼやけ、今にも消えてしまいそうだった。この男の存在そのものが、現実から少しずつ剥離し始めている。
「ここに来ると、少し楽なんです。……『あいつ』に、何もされないから」 「何か、されているんですか」
男は答えなかった。代わりに、彼はカウンターの端をじっと見つめた。 あの日、あの女が座っていた場所。
「彼女、今もあそこに座ってる気がするんですよ。……連絡は取れないのに、視線だけはあそこから届いてる気がして」
男はグラスを空にすると、ふらつく足取りで立ち上がった。
「また、来ます。……次は、彼女を連れてこれたらいいな」
帰り際、彼はドアの前で一度だけ振り返った。
「春樹さん。俺、何か大切なことを忘れてますか?」
俺は答えなかった。答えれば、彼の均衡が完全に崩れてしまう気がしたからだ。
ドアが閉まった瞬間だった。 カウンターの端で、ギィ、と椅子が低く軋んだ。
見えない。何も見えないが、そこには確かに重みが加わった。 誰かが、そこに腰を下ろした音。 俺は、そこを拭くことができなかった。あの日、彼女のグラスを洗えなかった時と同じ、正体不明の拒絶反応が体を縛る。
その夜の閉店後。 掃除をしていた俺の手元に、見慣れないライターが落ちていた。 安っぽいが、使い古された金属の感触。 俺の、そして店長やバイトの私物でもない。
火を点けてみると、小さな炎が一瞬だけ揺れ、すぐに吸い込まれるように消えた。 まるで、誰かの「吐息」で吹き消されたかのように。




