6話 執着
その男は、連れを伴って現れた。 数日前、青ざめた顔で「視線」の相談をしてきたあのホストだ。
「こんばんは、春樹さん。今日は知り合いを連れてきました」
男が背後を振り返る。そこには、一人の女が立っていた。 服装も、化粧も、控えめな微笑みも、歌舞伎町を歩けば数分おきにすれ違うような、ごくありふれたタイプだ。特別なところなんて、何一つない。
「こんばんは」
彼女は丁寧に挨拶をした。 なのに、俺の胸の奥で、経験したことのない不快な動悸が跳ねた。
彼女が店に足を踏み入れた瞬間、動作にわずかな「ラグ」があったのだ。 男と同時に入ってきたはずなのに、彼女の影だけが一拍遅れて床に落ちる。映像の同期がズレたような、生理的な気持ち悪さ。
「こちらへどうぞ」
カウンターへ案内し、二人は並んで座った。……はずだった。 視界には確かに、肩を並べる二人の姿がある。 なのに、カウンター越しに伝わってくる「人の気配」が、どうしても一人分足りない。彼女が座っているはずの場所が、俺の霊感には「ぽっかりと空いた穴」のように映るのだ。
「何にします?」
男が注文し、女は少し考えてから「同じものを」と言った。 声は小さいが、聞き取れないほどではない。ただ、その声は空気に乗って届くのではなく、鼓膜の裏側で直接響くような、妙な質感を持っていた。
グラスを置く。 男の前では、カランと小気味よく氷が鳴った。 だが、女の前に置いたグラスは、吸い込まれるように無音だった。
「静かだね、この店」
女が微かに笑った。冗談のつもりなのだろうか。
「そうかな。俺はここ、落ち着くよ」
男が答えると、女は少し首をかしげ、深い闇のような瞳で俺を見つめた。
「……私は、落ち着かない。ここには、私の居場所がないみたい」
理由は言わない。俺も、あえて聞かなかった。 理由を言葉にしてしまったら、この薄氷のような違和感が、取り返しのつかない「恐怖」に変わってしまうとわかっていたから。
飲んでいる間、女は何度も、自分の手のひらを見つめていた。 まるで、そこに肉体が実在することを確認するかのように。 「どうした?」と男が聞けば、「なんでもない」と答える。その空虚なやり取りが、何度も、何度も繰り返された。
「……そろそろ行こうか」
男が立ち上がり、会計を済ませる。 店を出る間際、女が最後に俺を振り返った。
「ねぇ、春樹さん。ここ、私の席……ちゃんとあります?」
意味はわからなかった。男はそれを酔っ払いの戯言だと聞き流し、彼女の背を押して店を出た。 二人分の足音が、階段をトントンと下りていく。 だが、店に残されたのは、二人分ではなく「一人分」の静けさだった。
彼女が座っていた席。グラスも動かしていない、酒もほとんど減っていない。 なのに、その席だけが、不自然なほど熱を持っている。 俺は慌てて布巾でそこを拭き取った。 どれだけ拭いても、名前のつかない違和感がこびりついて離れない。
その夜、注文票は増えなかった。 けれど、レジの横に、見覚えのないコースターが一枚だけ置かれていた。




