5話 執着
その男は、酒を飲むには少し早い時間に来た。
仕立ての良いスーツ。ネクタイは外しているが、襟元にはきっちりと結び目の跡が残っている。 歌舞伎町では珍しくない格好だ。ホストだと名乗らなくても、その指先の動かし方や、周囲を値踏みするような視線でわかる。
「相談、してもいいですか」
氷をグラスに落とす前に、遮るように言われた。 こういう切り出し方をする客は、大抵、酒よりも重いものをカウンターに置いていく。
「内容によります」
俺、春樹は、あえて事務的に答えた。深入りは禁物だ。 男は自嘲気味に苦笑し、「じゃあ、聞くだけでいいです」と、グラスの底を見つめたまま語り始めた。
最近、誰かに見られている気がするのだという。 仕事中も、帰り道も、鍵をかけたはずの家の中でも。 誰かが実在するわけじゃない。ただ、刺すような視線だけが、常に背中の皮膚一枚隔てた場所に張り付いている。
「被害妄想ですよね」
男は言いながら、グラスの縁を何度も何度も指でなぞった。その指先はわずかに震えている。
「でも、店の中でも『それ』は起こるんです。……接客してる最中、鏡越しに、誰かが立っている気がする。振り向くと、そこには誰もいない」
スタッフに聞いても、誰も通っていない。防犯カメラを確認しても、映っているのは楽しげに騒ぐ客と自分だけだという。 俺は軽めのカクテルを作った。アルコールに逃げ道を作ってやるような、優しい味。 男はそれを一口飲み、吐き出すように息をついた。
「誰か、恨まれるような心当たりは?」
俺の問いに、男は即座に首を振った。
「仕事ですから。色恋も、金の貸し借りも、全部含めて『売り物』です。恨みっこなしですよ」
言い切る声が、逆に不自然なほど乾いていた。 歌舞伎町で恨まれずに生きている人間なんて、幽霊より希少だ。
「女の人……なんです。たぶん」
少しの間を置いて、男が声を震わせた。
「影は見えるんです。黒いワンピースのような、細いシルエット。でも、顔だけが、どうしても抜け落ちている。モザイクがかかっているみたいに、はっきりしない」
その言葉を聞いた瞬間、俺の霊感が警鐘を鳴らした。 春樹としての直感と、第1章であの女を看取った記憶が、パズルのピースを繋ぎ合わせる。
「……それは、どこに立っているんですか?」 「ちょうど、今みたいに。俺のすぐ後ろです」
ぞわっと、背筋を氷でなぞられたような寒気が走った。 男が座っているのは、カウンターの端。 第1章で、名前を呼ばれなかったあの女が、いつも静かに座っていたあの場所だ。
俺からは男の背後が見える。霊感のフィルターを通しても、そこには何もない。
――いや。
男の背中の影が、妙に濃い。 照明の向きとは無関係に、男の影がゆっくりと、蛇のようにカウンターを這い上がってきている。
「誰にも話せなかった。でも、ここなら大丈夫な気がしたんです」
男の言葉に、俺は答えられなかった。 理由がある時点で、もう大丈夫じゃないのだ。 男は最後に、こう呟いた。
「もし、俺を見張っているのが『人』じゃなかったら……俺は、誰に謝ればいいんでしょうね」
帰り際、ドアの前で男はふと足を止めた。
「俺、ちゃんと生きてますよね。……消えてないですよね」
俺は答えず、代わりに力強くカウンターを拭いた。 濡れた布巾の跡に、一瞬だけ、輪郭のない影が写り込み、すぐに消えた。
その夜の閉店後。 誰もいないはずのカウンターに、注文票がたった一枚、残されていた。
品名欄は、空白。 だが、その端に、子供のような歪な筆跡で、こう書き殴られていた。
『ずっと、見てる』




