4話 名前を呼ばれない客
端の席は、いつも空いている。 それなのに、誰も座ろうとしない。理由を聞かれても、誰も答えられない。ただ、自然とそうなっただけだ。
彼女が来なくなってから、店は何事もなかったかのように回り続けていた。売上も、客足も、変わらない。ただ一つ、カウンターの端だけが、最初から存在しなかった欠落のように扱われている。
「そこ、空いてますか?」
時折、事情を知らない新しい客に聞かれることがある。
「すみません、今日はちょっと……」
俺は曖昧に濁して、別の席へ案内する。そこに嘘をついている自覚はない。ただ、そこは「彼女の場所」なのだと、細胞が理解してしまっている。
ある夜、久しぶりに店が静かになった。 最後の一人が帰り、穏やかなジャズだけが流れている。俺はグラスを磨きながら、思い切って店長に切り出した。
「あの人……結局、何だったんですか」
店長はグラスを光にかざし、すぐには答えなかった。
「……お客様だよ」 「……お客様?」 「ああ。ちゃんと金を払い、酒を楽しみ、この場所を愛してくれた。生きているか死んでいるか、なんてことは商売に関係ない。うちはお客様として扱った。それだけだ」
店長の言葉には、夜の街を生き抜いてきた者だけが持つ、冷ややかな、けれど温かい諦念が混じっていた。
「全部、説明できるお客様だけ相手にしてたら、この街(N町)じゃ商売にならないんだよ、春樹」
数日後、店に刑事がやってきた。 近くの路地で、身元不明の女性の遺体が見つかったらしい。年齢、顔立ち、どれも判別がつかないほど損傷が激しかったそうだ。
「黒いワンピースを着ていたそうです。心当たりは?」
その言葉に、胸の奥が冷たくざわついた。だが、俺に確認は求められなかった。写真も、名前も、何一つ提示されなかった。
「……いえ、心当たりはありません」
俺は静かに首を横に振った。本当に、似ていただけかもしれない。あるいは、この街に溢れている「名もなき誰か」の一人に過ぎなかったのかもしれない。
その日の夜も、店は営業した。 カウンターの端は、相変わらずぽっかりと空いている。一人の酔客が、ふらっとその席に座りかけたが、腰を下ろす直前で何かに気づいたように立ち上がった。
「……やっぱ、こっちにするわ。なんか、肩が凝りそうで」
理由は聞かなかった。ただ、彼の背後の空気が、わずかに白く揺れた気がした。
閉店後。一人で店に残り、照明を落とす。 暗くなった店内で、月光に照らされた端の席だけが、やけにくっきりと浮き上がって見えた。カウンターの木目に、薄く残る指の跡。
――気のせいだ。
自分に言い聞かせて、それをダスターで拭き取った。 その時だ。
背後で、カツン、と小さな音がした。氷がグラスに当たる、あの乾いた音。 振り返っても、そこには誰もいない。 だが、鼻をかすめたのは、湿った夜の空気と、微かなジンの匂い。そして、ライムを入れないジントニック特有の、鋭い香気だった。
翌朝。 開店準備のために店に入ると、端の席に一枚のレシートが落ちていた。日付は、彼女が最後に来た日。品名の欄は、何も印字されず、ただ「空白」のまま。 けれど、合計金額だけが、きっちりと正確に記されていた。
俺はそれを手に取り、しばらく見つめてから、そのままゴミ箱へ捨てた。 記録に残すものではない。この街では、名前を呼ばれないまま、ただの「客」として扱われたほうが、幸せな夜もあるのだ。
カウンターの向こう側で起きるすべてを、理解する必要はない。端の席が空かない本当の理由を、知らないままでいることも、バーテンダーという仕事の一部なのだから。
今夜もまた、俺は氷を少なめにする準備を始める。 名前を持たない、けれど確かにそこにいた、誰かのために。




