3話 名前を呼ばれない客
バーの閉店作業は、単純だ。 客を送り出し、音楽を止め、グラスを洗って棚に戻す。「あるべきもの」を元に戻し、「あってはいけないもの」を消し去る作業。 だから、その夜。カウンターの端に、ポツンとグラスが一つ残っているのを見た瞬間、俺の思考は停止した。
それは、彼女に出したホワイトレディのグラスだった。 薄く曇った縁には、生々しい口紅の跡。確かに、そこに誰かがいたという、この店で唯一の「記録」。
「……片づけ忘れか?」
独り言を呟き、グラスを持ち上げようとした指が凍りついた。 中身が、残っている。氷はほとんど溶けているはずの時間なのに、液体は不自然なほど波立たず、量も減っていない。つい数秒前まで、誰かが慈しむように飲んでいた。その気配が、グラスの周りにだけ濃密に漂っていた。
「店長、これ……」
声をかけると、店長は遠くからグラスを一瞥し、一瞬だけ痛ましいものを見るように目を細めた。
「……ああ」 「洗いますね」 「今日はいい。そのままにしておきなさい」
店長の声は低く、どこか祈るような響きがあった。
「でも、明日には埃を被りますし……」 「いいから。……それは、彼女の『未練』ではなく『余韻』だ。勝手に奪ってはいけない」
結局、そのグラスは流しに運ばれることもなく、彼女が座っていた場所に、一晩中取り残されることになった。
翌朝。 出勤して真っ先に目に飛び込んできたのも、やはりそのグラスだった。誰も触れていない。埃ひとつ乗っていない。だが、昨日よりも「そこにある」という主張が強まっている気がして、俺は思わず目を逸らした。
「これ、昨日の片づけ忘れっすか? 俺、洗っちゃいますね」
バイトのリョウが不用意に手を伸ばそうとした。
「触るな!」
自分でも驚くほど鋭い声が出た。リョウは肩を跳ねさせ、顔を伏せて「すみません」と言った。 なぜそんなに激高したのか、俺自身にもわからなかった。ただ、あのグラスに触れることは、何か決定的な境界線を越えてしまうことだと、本能が警鐘を鳴らしていた。
その夜の営業中も、異変は続いた。 満席に近い賑わいの中でも、カウンターの端、あのグラスが置かれた席だけは、エアポケットのように誰も座ろうとしなかった。 俺の霊感は、そこにある「何か」を形として捉えることはできなかったが、そこだけ時間が止まっているような、凍りつくような冷気が常に漂っているのを感じていた。
閉店後。俺は意を決して、そのグラスを手に取った。 持ち上げた瞬間、全身に鳥肌が立った。
――冷たい。
ありえない。丸一日放置された液体が、冷蔵庫から出したばかりのように冷えている。しかも、氷は溶けきらず、カチリと音を立ててグラスの壁を叩いた。
誰が、いつ、これに新しい氷を足した?
その夜、俺は恐怖を押し殺して防犯カメラを確認した。 無人の店内を映した映像。画面の隅で、グラスが数ミリ、内側へ移動した。時間が進む。また、数ミリ。 まるで、見えない誰かがグラスを自分の方へ引き寄せ、飲み直しているみたいに。そして、その「誰か」は、時折カメラの方へ顔を向けているような気がした。俺はそれ以上、見るのをやめた。
翌朝、グラスは跡形もなく消えていた。
「店長。あのグラス、どうしました?」
店長はカウンターを拭く手を止めず、事務的に答えた。
「片づけたよ」 「いつですか? 俺が上がった後は誰も……」 「春樹」
店長が初めて、俺を真っ直ぐに見た。その目は、すべてを受け入れたような深淵な色をしていた。
「見なくていいものは、見なくていいんだ。それが、この店に立つ者の『優しさ』でもある」
その言葉で、俺はすべてを悟った。 この店、この街には、記録にも理屈にも残してはいけない「何か」がある。それを「なかったこと」にするのも、バーテンダーの仕事なのだ。
それ以来、あの席には誰も座らなくなった。 俺は今でも、新しいグラスを磨くたびに、指先が凍りつくようなあの感覚を思い出す。そして、見つかるはずのない口紅の跡を、探してしまうのだ。




