幕間 落とし物
嵐のような客たちが去り、店にはようやく「普通の」騒がしさが戻ってきた。 泥酔して同じ話を繰り返すサラリーマン、出勤前に愚痴をこぼすキャバ嬢、そして、それらを適当にあしらいながらシェイカーを振る俺。 刑事には「健全な店を目指せ」なんて言われたが、この街で健全を貫くのは、砂漠で水一滴こぼさずに歩くより難しい。
「春樹さん、これ。あそこのテーブルに落ちてたよ」
バイトの女の子が、小さなぬいぐるみを持ってくる。安物のクレーンゲームで取れるような、どこかバランスの悪いウサギのぬいぐるみだ。
「ああ、さっきの学生さんたちのかな。預かっておくよ」
俺はそれを受け取り、カウンターの端にある忘れ物棚に置こうとした。その瞬間、指先に「熱」を感じた。 霊感というほど大げさなものじゃない。ただ、そのぬいぐるみが、持ち主の強烈な感情を吸い込みすぎて、微かに拍動しているような、嫌な温かさだ。
この繁華街には、こういう「念」の詰まった落とし物がよくある。別れ話の末に捨てられたプレゼント。負けが込んだギャンブラーが握りしめていたお守り。この街のゴミ捨て場が、時折、異界の入り口のように見えるのはそのせいだ。
深夜二時半。閉店作業をしていると、不意にドアが開いた。 入ってきたのは、さっきまで飲んでいた学生グループの一人だ。
「すみません……さっき、ここにぬいぐるみ忘れちゃって」
彼はひどく焦った様子で、顔色は青白い。
「これかな?」
俺がウサギを差し出すと、彼はそれを奪い取るように掴んだ。
「よかった……これ、あいつの形見なんです。これがないと、俺、あいつに殺されるから……」
さらりと言った言葉が、静まり返った店内に冷たく響く。
「……形見?」 「ええ。事故で死んだ彼女が、ずっと大事にしてたやつで。……あ、気にしないでください。冗談ですよ」
彼は無理に笑って、ぬいぐるみを抱きしめた。 だが、俺の目には見えてしまった。ウサギのぬいぐるみの短い腕が、彼の首筋を、そっと、慈しむように絞めているのが。
「……お気をつけて」
俺はそれ以上、何も言えなかった。彼は「助かった」という顔で、階段を駆け上がっていった。 店に残されたのは、またしても「一人分」の静けさだ。
俺はカウンターを丁寧に拭き上げる。綺麗な男が残していった、あの銀色の小瓶の洗浄液を一滴だけ使って。 どんなに拭いても、この街の「未練」が消えることはない。それでも俺は、明日もまた、この場所で誰かの喉を潤し、誰かの記憶をやり過ごす。
ふと見ると、レジの横に、また新しいレシートが落ちていた。誰もいないはずの店内で、印字機が静かに一言だけ、文字を吐き出した。
『次は、わたしの番?』
俺はそれを見なかったことにして、店の明かりを消した。




