20話 綺麗な男
午前二時。 男がコースターに記した「日記」の最新の一行。その時刻が来た。
俺はカウンターの下に護身用の重い灰皿を隠し、ドアが開く音を待った。 彼が「被写体」として誰を連れてくるのか。あるいは、俺がその被写体に選ばれるのか。 心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響いていた。
だが、二時を過ぎても、五分経っても、あの消毒液の匂いはやってこなかった。 代わりに店に飛び込んできたのは、またあの刑事だった。 肩で息を切らし、ひどく不機嫌そうにカウンターを叩く。
「……あいつ、ここに来る予定じゃなかったか?」 「え……あ、あの、綺麗なスーツの男のことですか?」 「そうだ。あいつ、さっき路地裏で若い女性を気絶させてるところを、張り込み中の刑事に押さえられたよ。抵抗もせず、ただ『靴が汚れる』とか何とか抜かして、大人しくパトカーに乗った」
拍子抜けした。 俺の覚悟を嘲笑うかのように、男の「日記」の余白は、警察の無機質な調書によって埋められることになったらしい。
「あの男、一体何者だったんですか」
俺が尋ねると、刑事は大きな溜息をつき、手帳を鞄に突っ込んだ。
「数年前から全国を転々としている異常な潔癖症のシリアルキラーの疑いだ。死体を『掃除』して、その直前の表情をデータ化して楽しんでいたらしい」
刑事は呆れたように俺の顔をジロジロと見た。
「……しかし、お前。前回のアリバイ女といい、今回の潔癖殺人鬼といい、よくもまあ短期間にこれだけ厄介な人間ばかり引き寄せるな。この店には、そういう連中を呼び寄せる磁石でも埋まってるのか?」 「……俺だって、好きで呼んでるわけじゃないですよ」 「だったらもっと健全な店を目指せ。……これ以上、俺の仕事を増やすなよ」
刑事は苦笑いしながらそう吐き捨てて、騒々しく店を出て行った。
静寂が戻った店内。 俺は、男が座るはずだった空席を見つめた。 彼が残した「日記」に、俺の鼓動が跳ねた瞬間が刻まれることはなかった。
だが、彼が連れて行かれた後のカウンターには、あの「銀色の小瓶」だけが、ぽつんと取り残されていた。 俺はそれを手に取り、男が座っていた場所を、一滴だけ垂らして拭いてみた。
驚くほど簡単に、何の跡も残さず、カウンターは鏡のように磨き上げられた。 あまりにも綺麗すぎて、そこにあるはずの木の温もりさえ消えてしまったかのように。
「……健全な店、か」
俺は苦笑し、グラスを棚に戻した。 繁華街の夜は、まだ終わらない。 次にドアを開けるのが、どんなに「汚れた」記憶を持つ客だとしても。 俺はただ、酒を出し、カウンターを拭き続けるだけだ。 たとえその度に、誰にも言えない秘密が、この店に溜まっていくのだとしても。




