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バーテンダー春樹の苦悩  作者: 道雪ちゃん


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2話 名前を呼ばれない客

 バーの仕事は、記録の積み重ねだ。  どんな酒を、誰に、何杯出したか。それを間違えれば、カウンターという聖域の信用は簡単に崩れる。  だから俺は、どれほど忙しい夜でも必ず自分で伝票を書く。一杯ごとに、癖のようにペンを走らせる。


 ……あの女性が来るまでは、それが当たり前だった。


 その日も、気づくと彼女はカウンターの端に座っていた。  黒いワンピース。膝に置かれたバッグ。やけに正しい姿勢だけが、喧騒の中で浮いている。


「いつもの、お願い」


 声をかけられた瞬間、俺の手がわずかに止まった。


「……ジントニックですね」 「うん」


 それ以上の確認は不要だった。  勘が告げる――彼女の周囲には「音」がない。喧騒を吸い込むような、底なしの静寂。  俺は迷わず、氷を少なめにしたジントニックを差し出した。  いつものように伝票を書こうとするが、ペン先が宙で止まる。


 ――どこに、何を書けばいい?


 彼女は誰の連れでもない。席番号はあるのに、名前を書くべき欄が、そこだけ世界から切り取られたかのように真っ白だった。  結局、彼女の一杯分だけ、空欄のまま伝票を置いた。それが、すべての狂いの始まりだった。


 閉店後、レジ締めをしていた店長が、ふと手を止めた。


「……春樹。今日、ジンが一本、計算より減っているね」


 店長の声は穏やかだったが、その目はどこか遠くを見ているようだった。


「……すみません。端の席の方に出しました。三、四杯は出したはずです」 「伝票は?」 「……書いてません。いえ、書けなかったんです」


 沈黙がカウンターに重く落ちる。


「……次からは、一応でも書いておきなさい。それが繋ぎ止める、この世界のルールだから」


 店長は俺を責めなかった。むしろ、深い霧の中にいる俺を心配しているような、そんな響きだった。


 翌日から、俺は意地になって彼女の注文を書くようにした。 「ジントニック」  確かにペン先からインクが紙に染み込んだのを見た。なのに、ふと目を離すと、その行が消えている。消しゴムで消した跡も、滲んだ跡もない。まるで最初から文字など存在しなかったかのように、紙の繊維だけが白く笑っている。


 ある夜、彼女は珍しく別の酒を頼んだ。


「今日は、違うの。あなたが決めて」


 少し迷い、俺はホワイトレディを出した。  シェイカーを振る音を、彼女は楽しそうに聞いていた。


「これ、好き。……この場所もね」


 微笑んだ彼女の背後で、店の空気がわずかに震える。その「好き」という言葉は、酒ではなく、この「境界線」そのものに向けられている気がして、背中に冷たい汗が流れた。


「店長。あの人の会計、本当はどうなってるんですか?」


 俺の問いに、店長は引き出しから一通の小さな封筒を取り出した。


「毎回、ここに入っている。端数もなし、完璧な金額だ」 「誰が置いていくんですか……?」 「……うーん。私が気づいた時には、もうあるんだよ。……春樹。あまり深追いしすぎるな。彼女は、この店に場所を借りているだけなんだ」


 店長の言葉は、彼女を拒絶しているのではなく、あちら側の存在を尊重しているようにも聞こえた。


 最後に彼女が来た夜。俺は耐えきれずに聞いた。


「……名前、聞いてもいいですか。記録に残したいんです」


 彼女は少し驚いた顔をして、それから、困った子供を諭すように笑った。


「書くの?……これに?」


 彼女が指差した伝票は、すでに真っ白だった。  結局、答えは得られなかった。


 その夜以降、彼女は来なくなった。  端の席は空き、伝票の数字もピタリと合うようになった。  でも俺は今でも、真っ白な伝票を見るたびに思い出す。


 書かなかったんじゃない。この世界が、彼女を記録することを拒んだのだ。

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