19話 綺麗な男
その男が置いていったコースター。 そこに記された数字が、彼の「鼓動が跳ねた瞬間」の記録だと知ってから、俺はレジの奥にあるその紙片に触れることができなくなっていた。 あれは単なる住所じゃない。誰かが「一番綺麗になった瞬間」……つまり、この男が誰かの終焉を見届けた記録なのだから。
一週間後、またあの男が来た。 外は生暖かい夜の風が吹いているというのに、彼が連れてきた空気だけは、冬の朝のように冷たく澄んでいた。
「……こんばんは」 男はいつものように、カウンターの端に座った。 一回目は、キリリと冷えた「ギムレット」。 二回目は、ライムの香りが鋭い「ジントニック」。 俺は今日、彼が何を頼むのかをじっと待った。
「ジントニックを、もう一度。……少し、喉が汚れている気がするので」
俺は無言で頷き、ジントニックを作った。 氷がグラスに当たる小さな音さえ、今の俺にはひどく大きく、不純な響きに聞こえた。 グラスを差し出すと、男はそれを一口飲み、ゆっくりと目を閉じた。
「春樹さん。あなたは、この街の『嘘』をどう思いますか?」
男が、グラスを見つめたまま静かに言った。
「嘘、ですか」 「ええ。皆、自分を綺麗に見せようと必死だ。香水で体臭を消し、笑顔で悪意を隠す。……でも、私の『日記』に刻まれる瞬間だけは、誰も嘘をつけない」
男は細く白い指で、自分の胸元をトントンと叩いた。
「先日お話しした私の鼓動……あれが跳ねる時、世界から余計な色が消えるんです。赤はより鮮やかに、黒はより深く。……そのコントラストこそが、私の求める『清潔』なんです」
男はジントニックを半分ほど飲み、ふと俺の手元を見た。
「春樹さん、あなたの手……少し震えていますね。鼓動が、指先まで伝わっている。それは今のあなたが『正直』である証拠だ。……非常に、好ましい」
男はポケットから、小さな銀色の小瓶を取り出し、カウンターに置いた。中には無色透明の液体が入っている。
「これは、私が作った特別な洗浄液です。不純物を一切含まない。……これで拭けば、どんなしつこい記憶も、血の跡も、完璧に消し去ることができる」
男は立ち上がり、飲みかけのジントニックをそのままに、俺をじっと見つめた。
「私の日記には、まだ数ページの余白がある。……次にここへ来る時、私はその余白を埋めるための『被写体』を連れてくるかもしれません」
男は音もなく会計を済ませた。 去り際、彼はドアの取っ手に手をかけ、一度だけ振り返った。
「春樹さん。あなたなら、その瞬間をどんな酒で祝ってくれますか?」
男が去った後、俺は彼が残したジントニックを流しに捨てた。 男の言った「被写体」という言葉が、呪文のように頭から離れない。 俺は震える手で、レジの奥のコースターを取り出した。 そこには、これまで気づかなかった「新しい一行」が、いつの間にか書き加えられていた。
『1月15日 2:00 場所:この場所』
それは、今夜。この店が閉まる時刻だった。




