表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バーテンダー春樹の苦悩  作者: 道雪ちゃん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/22

19話 綺麗な男

 その男が置いていったコースター。  そこに記された数字が、彼の「鼓動が跳ねた瞬間」の記録だと知ってから、俺はレジの奥にあるその紙片に触れることができなくなっていた。  あれは単なる住所じゃない。誰かが「一番綺麗になった瞬間」……つまり、この男が誰かの終焉を見届けた記録なのだから。


 一週間後、またあの男が来た。  外は生暖かい夜の風が吹いているというのに、彼が連れてきた空気だけは、冬の朝のように冷たく澄んでいた。


「……こんばんは」    男はいつものように、カウンターの端に座った。  一回目は、キリリと冷えた「ギムレット」。  二回目は、ライムの香りが鋭い「ジントニック」。  俺は今日、彼が何を頼むのかをじっと待った。


「ジントニックを、もう一度。……少し、喉が汚れている気がするので」


 俺は無言で頷き、ジントニックを作った。  氷がグラスに当たる小さな音さえ、今の俺にはひどく大きく、不純な響きに聞こえた。  グラスを差し出すと、男はそれを一口飲み、ゆっくりと目を閉じた。


「春樹さん。あなたは、この街の『嘘』をどう思いますか?」


 男が、グラスを見つめたまま静かに言った。


「嘘、ですか」 「ええ。皆、自分を綺麗に見せようと必死だ。香水で体臭を消し、笑顔で悪意を隠す。……でも、私の『日記』に刻まれる瞬間だけは、誰も嘘をつけない」


 男は細く白い指で、自分の胸元をトントンと叩いた。


「先日お話しした私の鼓動……あれが跳ねる時、世界から余計な色が消えるんです。赤はより鮮やかに、黒はより深く。……そのコントラストこそが、私の求める『清潔』なんです」


 男はジントニックを半分ほど飲み、ふと俺の手元を見た。


「春樹さん、あなたの手……少し震えていますね。鼓動が、指先まで伝わっている。それは今のあなたが『正直』である証拠だ。……非常に、好ましい」


 男はポケットから、小さな銀色の小瓶を取り出し、カウンターに置いた。中には無色透明の液体が入っている。


「これは、私が作った特別な洗浄液です。不純物を一切含まない。……これで拭けば、どんなしつこい記憶も、血の跡も、完璧に消し去ることができる」


 男は立ち上がり、飲みかけのジントニックをそのままに、俺をじっと見つめた。


「私の日記には、まだ数ページの余白がある。……次にここへ来る時、私はその余白を埋めるための『被写体』を連れてくるかもしれません」


 男は音もなく会計を済ませた。  去り際、彼はドアの取っ手に手をかけ、一度だけ振り返った。


「春樹さん。あなたなら、その瞬間をどんな酒で祝ってくれますか?」


 男が去った後、俺は彼が残したジントニックを流しに捨てた。  男の言った「被写体」という言葉が、呪文のように頭から離れない。    俺は震える手で、レジの奥のコースターを取り出した。  そこには、これまで気づかなかった「新しい一行」が、いつの間にか書き加えられていた。


 『1月15日 2:00 場所:この場所』


 それは、今夜。この店が閉まる時刻だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ