17話 綺麗な男
繁華街の夜は、嘘でできている。 厚化粧で隠した素顔や、酒でごまかした本音。 少しだけ「見えて」しまう俺にとって、夜のバーは、人の背後にへばりついたドロドロとした感情のゴミ捨て場のようなものだ。
だからこそ、その男が入ってきた時、俺は奇妙な清涼感を覚えた。
「いらっしゃいませ」
カラン、と鈴が鳴る。 入ってきたのは、三十代後半くらいの、非の打ち所がないスーツ姿の男だった。 驚いたのは、その「清潔さ」だ。
霊感というフィルターを通しても、彼には何のノイズもない。 恨みも、悲しみも、執着もない。 まるで、たった今工場で組み立てられたばかりの精密機械のような、無機質な透明感だった。
「春樹さん、ですよね。いい店だ」
男は初対面の俺の名前を、迷いなく呼んだ。
「……どちらかでお会いしましたか?」 「いいえ。でも、腕が良くて、余計なことを聞かないバーテンダーがいると聞きましてね」
男はそう言うと、カウンターの中ほどに座った。
「ギムレットを。それと、少しだけお話に付き合っていただけますか?」
男の立ち振る舞いは完璧だった。 ギムレットを差し出すと、まず香りを楽しみ、それから完璧な角度でグラスを傾ける。 語られるのは、最近うまくいった仕事の話。知的なユーモア。穏やかな声。 店長も「いい客だ」と言わんばかりに頷いている。
だが、俺の指先には、得体の知れない冷たさが伝わっていた。
(……綺麗すぎる)
この街で生きていて、これほど「真っ白」な人間がいるはずがない。 霊感に何も映らないのは、彼が善人だからではない。自分の手についた汚れを、すべて別の場所に「置いている」からではないか。
「春樹さん、どうかしましたか? 手が止まっていますよ」 「……失礼しました。お口に合いましたか」 「ええ、素晴らしい。……あなたは、汚さない人だ」 「汚さない?」 「ええ。客が持ち込んだものを、そのまま、静かに受け入れてくれる。そういう『場所』を、私はずっと探していたんです」
男はそう言うと、胸ポケットから一枚のコースターを取り出した。 裏には、赤いペンで数字がびっしりと書き込まれている。 何の羅列かはわからない。ただ、その数字の羅列が、俺には何かの「座標」か「記録」のように見えて、不気味だった。
「これを、預かっておいてもらえますか? 次に来る時まで」 「忘れ物としてですか?」 「いいえ。『保管』です。あなたなら、中身を見ずに、ただそこに置いておいてくれると信じています」
男は代金をきっちり払い、スマートに店を出て行った。 残されたコースターからは、香水の匂いさえしなかった。ただ、鼻を刺すような、プールの消毒液のような無機質な臭いだけが、カウンターに残っていた。
翌朝、ニュースが流れた。 近隣のコインパーキングで、身元不明の遺体が見つかったという。 死因は薬物による中毒死。 衣服には乱れがなく、遺体はまるで展示品のように「清潔」な状態で放置されていたそうだ。
俺は金庫に入れたコースターを思い出し、奥歯がガタガタと震えるのを抑えられなかった。




