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バーテンダー春樹の苦悩  作者: 道雪ちゃん


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16話 記憶

「私の、お母さんの話をしましょうか」

女がそう言った瞬間、店内の音は完全に消失した。


グラスの触れ合う音も、空調の低い唸りも、すべてが切り取られる。

俺──春樹の視界は、どす黒い霧に覆われた。


霊感のせいでわかる。彼女がこれから吐き出すものは、ただの言葉じゃない。

質量を持った「毒」が、泥のようにカウンターを這い上がってくる。


彼女が語ったのは、介護の末の、静かな殺意だった。

衰えていく母親の体。

終わりの見えない排泄物の処理。

深夜、薄い壁越しに響く咳の音。


ある夜。

彼女が母親の口をタオルで塞いだとき、手のひらに伝わった微かな抵抗。

そして、それが止まった瞬間に訪れた、信じられないほどの解放感。


「あはっ、最高に美味しかったわ」

カクテルを飲み干した彼女は、今までにないほど美しく笑った。

そこにいたのは、疲れ切った女ではない。


何ひとつ汚れていない、無垢な少女のような顔だった。

対照的に、俺はカウンターの中で膝をついた。


喉の奥から、経験したことのない感触がせり上がってくる。

老人の肉の柔らかさ。湿ったタオルの重み。

(違う。これは俺の記憶じゃない。


俺の母さんは、田舎で元気に──)

そう思おうとした。

だが、脳がそれを拒絶する。


俺の中にあった「実家の母」の顔が、霧が晴れるように消えていく。

代わりに、俺が殺したはずの「彼女の母親」の死に顔が、唯一の真実として居座った。

「返して……返せ……!」


掠れた声は、いつの間にか女のものになっていた。

彼女はハンドバッグを軽やかに肩にかけ、一度も振り返らずに言った。


「ありがとうございました、春樹さん。……いいお仕事でしたよ」

カラン、とドアの鈴が鳴る。


彼女が出ていった後、俺の手元に残ったのは、空になったグラスと、俺のものではない「人殺しの記憶」だけだった。

「ありがとうございました、春樹さん。……いいお仕事でしたよ」


カラン、とドアの鈴が鳴る。 女が出ていった後、俺の手元に残ったのは、空になったグラスと、俺のものではない「人殺しの記憶」だけだった。


「……おい、春樹。大丈夫か?」 駆け寄ってくる店長の顔を見て、俺は愕然とした。 名前が思い出せない。この店にどうやって雇われたのか、俺の本当の母親は誰だったのか。俺の中身が、見知らぬ老婆を殺害した「彼女」の人生でパンパンに膨れ上がり、俺自身の輪郭を消し去っていく。


(俺は……誰だ……? 殺した、俺が殺したんだ……)


俺の背後で、殺された母親の霊が、唯一の肉親であるかのように俺の首に冷たい手を回す。 絶望が喉元までせり上がった、その時だった。


──パンッ!!


乾いた、けれど腹の底にまで響くような鋭い音が店内に炸裂した。 店長が、俺の目の前で大きく、力強く柏手を打ったのだ。


その瞬間、店内の空気が一変した。 どす黒い霧が弾け、耳の奥でこびりついていた老婆の断末魔が、ガラスが割れるような音を立てて霧散する。


「……っ、がはっ!!」


俺は激しく咳き込みながら、カウンターに突っ伏した。 肺の中に、新鮮な、けれど少しアルコールの匂いが混じった「境界線」の空気が流れ込んでくる。


「春樹。……そこまでだ。その記憶を飲み込む必要はない」


店長の声は、驚くほど穏やかで、それでいて有無を言わさぬ強制力を持っていた。 ふと見ると、俺の背後にへばりついていた老婆の影が、店長が打った柏手の余韻に焼かれるように、透き通って消えていく。


「て……店長……」 「思い出せますか? 君の名前は春樹。この店のバーテンダーだ」


店長の手が、俺の肩をぽんと叩いた。 その手の温もりを通じて、濁流のように流れ込んでいた他人の人生が、指先から外へ吸い出されていく感覚があった。俺が処理しきれなかった毒を、店長が店そのものを使って浄化してくれたのだ。


「……すみません。俺、自分が誰だか……」 「彼女は、自分の業を他人に押し付けることでしか、彼女のままでいられなかったのでしょう。……ですが、この店で吐き出されたものは、すべて私が預かります」


店長は、女が座っていた席の空グラスを手に取った。 「君が空っぽになる必要はありません。君の空いた場所には、また新しいカクテルの知識と、ここでの日常を詰めればいい」


翌朝。 鏡の前に立つ俺の背後には、もうあの母親の姿はなかった。 自分の母親の名前も、実家の風景も、はっきりと思い出せる。 ただ、左肩にほんの少しだけ、あの老婆の「冷たさ」の記憶がこびりついている気がしたが、ナニカが面倒そうに追い払ってくれた感覚があった。


カラン、と鈴が鳴る。 夜が来れば、また俺はカウンターに立つ。

「いらっしゃいませ」


自分を取り戻した俺の声は、以前よりも少しだけ、深く、重みのあるものに変わっていた。

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