15話 記憶
自分の名前の読み方を忘れた。
その恐怖は、一過性のものではなかった。 翌朝、目が覚めた時、俺は自分の部屋を見回して激しい吐き気に襲われた。
「……ここは、誰の部屋だ?」
クローゼットにかかっている服。本棚に並ぶ小説。そのすべてに心当たりがない。 代わりに、俺の脳内では「彼女」が通っていたはずの女子高の校歌が、大音量で流れ続けていた。
店に出勤しても、事態は悪化する一方だった。 霊感があるせいで、鏡を見るたびに自分の輪郭がぼやけ、代わりに背後の「彼女の記憶の残滓」が実体を持って、俺の顔を覆い隠そうとしているのが見える。 それは守護霊などではない。俺の「中身」を食い破って出てこようとする、他人の人生の断片だ。
「……春樹、大丈夫か。お前、さっきからマティーニに砂糖を入れようとしてるぞ」
先輩のケイタが不安そうに声をかけてきた。 その声が、やけに遠く聞こえる。
「……すみません。少し、寝不足で」 「顔色が最悪だ。今日はもう上がれ」
店長の言葉に甘えて、俺は裏口から外へ出た。 繁華街の冷たい夜風に当たれば、少しは自分を取り戻せると思った。 だが、歩道ですれ違う人々の顔が、すべて「彼女の記憶」に登場した人物に見える。 知らないはずの誰かに向かって「久しぶり」と声をかけそうになり、必死で口を塞いだ。
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「ずいぶん、馴染んできたみたいね」
振り返ると、街灯の下に彼女が立っていた。 以前のような隈はもうない。肌は艶やかで、瞳は爛々と輝いている。 彼女は、俺の左手に浮き出た火傷の痕を、愛おしそうになぞった。
「返して、なんて言わないわよ。だって、それはもうあなたの『本当』なんだから」 「……何をした」 「何も? 私はただ、捨てただけ。それを拾って、自分のものにしたのはあなた。バーテンダーは、客の注文を拒めない。そうでしょ?」
彼女は楽しそうに笑いながら、俺の耳元で囁いた。
「ねえ、最後の一杯、飲ませてくれる? 私の、一番大切で、一番醜い記憶」
「拒絶すべきだ」という理性が、 彼女の内側に渦巻く「黒い塊」を視覚的に捉えている霊感が、 全力で警告を発している。
だが、俺の体は、まるでプログラミングされた機械のように彼女に頭を下げていた。
「……店で、お待ちしています」
自分の意志ではない。 俺の脳の半分を占拠した「彼女の記憶」が、続きを、完結を求めているのだ。
店に戻り、カウンターに立つ。 彼女は「いつもの」席に座った。 俺は震える手でシェイカーを握った。
霊感のせいで見えてしまう。 彼女が語ろうとしている「最後の一杯」の正体が。 それは、真っ黒で、どろりとした、人間が抱えてはいけない種類の「罪」の形をしていた。
彼女は、勝利を確信したような笑みを浮かべて、口を開いた。
「私の、お母さんの話をしましょうか」
その瞬間、俺の視界からケイタも、酒棚のボトルも消えた。 俺の目の前にあるのは、血の匂いが充満した、見知らぬアパートの一室だった。




