14話 記憶
彼女が置いていったのは、「中学時代のいじめ」の記憶だった。
カクテルを飲み干すたびに、彼女の隈は薄くなり、肌に血の気が戻っていく。 それとは対照的に、俺は彼女の語る言葉の一つひとつが、鋭い破片となって脳に突き刺さるのを感じていた。
教科書を引き裂く音。 放課後、誰もいない教室で上履きを隠されたときの、言葉にできない惨めさ。 不思議なのは、彼女が話せば話すほど、その光景が俺の中で「聞いた話」ではなく、「俺自身の体験」として上書きされていくことだった。
三晩目、四晩目。 彼女は毎晩のように、あの「いつもの」席に座り、記憶を捨てていった。 捨てられる記憶は、回を追うごとに重く、どろどろと粘り気を帯びていく。
「昨日、変な夢を見たんだ」
開店前、掃除をしていたバイトのリョウが、不安そうに声をかけてきた。
「夢の中でさ、俺、全然知らない女の人を突き飛ばしてて。でも……感触が、妙にリアルで……」
俺はグラスを拭く手を止めた。
「……それは、お前の記憶じゃない。気にするな」 「そうなんですけど……最近、店にいると変な匂いがするっていうか……」
リョウだけじゃない。 店長も、最近は俺と目を合わせようとしなくなっていた。 俺がカウンターに立つだけで、店全体の空気が淀んでいくのが分かる。
俺のせいじゃない。 彼女が置いていったもののせいだ。 そう思いたかった。 けれど、鏡を見るたびに、自分の表情が少しずつ「彼女」に似てきていることに気づき、背筋が凍った。
ある夜、ついに限界が来た。 彼女が五杯目のカクテルを飲み干し、一番残酷な記憶を語ろうとした、そのとき。
「……もう、いい」
俺は、彼女の言葉を遮った。
「これ以上は、聞けません」
女は一瞬、意外そうに目を見開いた。 それから、喉の奥で鳴らすような、不気味な笑い声を漏らした。
「どうして? あなたの仕事でしょう。客の話を聞くのは」 「仕事の範疇を超えています。俺は……俺のままでいたい」
その言葉を口にした瞬間、彼女の顔から、すべての表情が消えた。
「……じゃあ、今まで預けた分はどうするの?」 「それは……」 「返してなんて言わないわ。もう、私のじゃないもの」
彼女はゆっくりと立ち上がり、膝の上に置いていたバッグを持ち上げた。 その動作は、初めて店に来た夜よりも、ずっと軽やかだった。
「いいわ。今日はもう帰る。でもね」
彼女は振り返らずに言った。
「中途半端な記憶って、一番タチが悪いのよ」
彼女が去ったあと、俺はその場に崩れ落ちた。 頭の中では、彼女の記憶と俺自身の記憶が絡み合い、どこからどこまでが「俺」なのか、その境界線が分からなくなっていた。
ふと、レジ横の伝票に目が留まる。 そこには、彼女の名前も、注文した酒の名前も、何も書かれていない。 ただ、俺の字で、一行だけ記されていた。
『俺は、誰?』
その夜、俺は自分の名前を何度も何度も繰り返し唱えながら、震える体を抱えて眠った。、朝を待った。




