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バーテンダー春樹の苦悩  作者: 道雪ちゃん


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13/22

13話 記憶

 繁華街の喧騒は、深夜を過ぎてもなお衰えない。  ネオンの光と湿った排気ガスの匂いが入り混じるこの街で、俺の店は地下の底に沈んでいる。


 俺には、少しだけ「見える」節がある。  霊感なんて大層なものじゃない。人の背後によどみのようなものが見えたり、店に入ってきた客の肩が妙に重そうだと分かったりする程度だ。  だから、バーテンダーという仕事は、俺にとってある種の防壁だった。  カウンターという境界線を挟んでいれば、客の人生に深入りせずに済む。


 ――あの日、彼女が来るまでは。


「忘れたいことって、お酒に混ぜて、綺麗に消せるって本当ですか?」


 カウンターの端。  かつて「名前のない客」が座っていた、あの席に、女はいた。  二十代半ばに見える。落ち着いた色のブラウスを着て、身なりも整っている。  だが、彼女が纏う空気は、明らかに異質だった。  彼女の背後には、墨をぶちまけたような黒い「何か」が、粘り気を帯びてうごめいている。  今まで見てきたどの澱みよりも濃く、重い。


「うちは、クリーニング屋じゃありませんよ」


 わざとぶっきらぼうに答え、ステアの手を止めなかった。  関わりたくない。直感が、そう告げていた。


「誰かに話すと、その記憶が自分のものじゃなくなる気がするんです。半分、相手にあげちゃうみたいで」


 俺の拒絶を無視するように、彼女は言葉を続ける。


「だから、ここで一番強いお酒に、私の記憶を混ぜてください。私が飲んで、あなたがその話を聞いてくれたら……私の記憶はあなたのものになる。そうすれば、私は忘れられる」


 彼女がカウンターに置いた指先から、黒い澱みがじわりと木目に染み出していく。  霊感のせいで、それがただの錯覚ではないと分かってしまうのが、たちが悪い。


 俺は抗う代わりに、度数の高いジンをベースにしたカクテルを差し出した。  逃げられないなら、せめて早く終わらせて帰したかった。


「……小学生の頃の話です。飼っていた犬が、死んだんです」


 彼女が語り始めた瞬間、店内の空気が変わった。  繁華街の雑踏が遠のき、耳元で古い軽トラックのエンジン音が響く。  彼女の背後の黒い塊が、ずるりとカウンターを越え、俺の足元へ伸びてきた。


 リードが外れる音。  追いかけた先の十字路。  鈍い衝撃音と、アスファルトに広がっていく、どす黒い赤。


「ごちそうさま。……なんだか、少し軽くなりました」


 彼女がグラスを空けた瞬間、背後の澱みは消えた。  代わりに、俺の胃の奥が、氷を飲み込んだように冷え切る。  彼女は憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔で、店を出ていった。


 閉店作業をしていると、店長が声をかけてきた。


「……春樹、さっきから何を探してるんだ?」 「え?」


 気づけば俺は、カウンターの角を何度も何度も拭いていた。


「いや……そこに、血の匂いが残ってる気がして……」 「血? 何言ってるんだ。掃除はもう終わってるよ」


 怪訝そうな店長の顔を見て、俺は口を閉ざした。  店長には見えていない。  俺の足元に、彼女が置いていった黒い犬の影が、じっとこちらを見上げて座っていることが。


 翌朝、目を覚ますと、俺の知らない記憶が脳内に居座っていた。  アスファルトのざらついた感触。  死んだ犬の毛並みの柔らかさ。  それは「聞いた話」ではなく、「俺の体験」として根を張っている。


 夜になり、店に出勤する。  カラン、とドアの鈴が鳴った。


 昨日と同じ席に、彼女が座っていた。  背後には、昨日よりもさらに巨大で、醜い形の黒い塊を背負って。


「今日も、一つ捨てに来ました。……聞いてくれますか?」


 彼女の目は、昨日よりもずっと澄んでいる。  霊感が、最悪の警告を鳴らしていた。  このまま彼女の話を聞き続ければ、俺という人間の中身が、彼女の捨てた記憶で埋め尽くされてしまう。


「……何を、お作りしましょうか」


 それでも俺は、ボトルに手を伸ばした。  バーテンダーは、客の注文を断れない。

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