13話 記憶
繁華街の喧騒は、深夜を過ぎてもなお衰えない。 ネオンの光と湿った排気ガスの匂いが入り混じるこの街で、俺の店は地下の底に沈んでいる。
俺には、少しだけ「見える」節がある。 霊感なんて大層なものじゃない。人の背後に澱のようなものが見えたり、店に入ってきた客の肩が妙に重そうだと分かったりする程度だ。 だから、バーテンダーという仕事は、俺にとってある種の防壁だった。 カウンターという境界線を挟んでいれば、客の人生に深入りせずに済む。
――あの日、彼女が来るまでは。
「忘れたいことって、お酒に混ぜて、綺麗に消せるって本当ですか?」
カウンターの端。 かつて「名前のない客」が座っていた、あの席に、女はいた。 二十代半ばに見える。落ち着いた色のブラウスを着て、身なりも整っている。 だが、彼女が纏う空気は、明らかに異質だった。 彼女の背後には、墨をぶちまけたような黒い「何か」が、粘り気を帯びてうごめいている。 今まで見てきたどの澱みよりも濃く、重い。
「うちは、クリーニング屋じゃありませんよ」
わざとぶっきらぼうに答え、ステアの手を止めなかった。 関わりたくない。直感が、そう告げていた。
「誰かに話すと、その記憶が自分のものじゃなくなる気がするんです。半分、相手にあげちゃうみたいで」
俺の拒絶を無視するように、彼女は言葉を続ける。
「だから、ここで一番強いお酒に、私の記憶を混ぜてください。私が飲んで、あなたがその話を聞いてくれたら……私の記憶はあなたのものになる。そうすれば、私は忘れられる」
彼女がカウンターに置いた指先から、黒い澱みがじわりと木目に染み出していく。 霊感のせいで、それがただの錯覚ではないと分かってしまうのが、たちが悪い。
俺は抗う代わりに、度数の高いジンをベースにしたカクテルを差し出した。 逃げられないなら、せめて早く終わらせて帰したかった。
「……小学生の頃の話です。飼っていた犬が、死んだんです」
彼女が語り始めた瞬間、店内の空気が変わった。 繁華街の雑踏が遠のき、耳元で古い軽トラックのエンジン音が響く。 彼女の背後の黒い塊が、ずるりとカウンターを越え、俺の足元へ伸びてきた。
リードが外れる音。 追いかけた先の十字路。 鈍い衝撃音と、アスファルトに広がっていく、どす黒い赤。
「ごちそうさま。……なんだか、少し軽くなりました」
彼女がグラスを空けた瞬間、背後の澱みは消えた。 代わりに、俺の胃の奥が、氷を飲み込んだように冷え切る。 彼女は憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔で、店を出ていった。
閉店作業をしていると、店長が声をかけてきた。
「……春樹、さっきから何を探してるんだ?」 「え?」
気づけば俺は、カウンターの角を何度も何度も拭いていた。
「いや……そこに、血の匂いが残ってる気がして……」 「血? 何言ってるんだ。掃除はもう終わってるよ」
怪訝そうな店長の顔を見て、俺は口を閉ざした。 店長には見えていない。 俺の足元に、彼女が置いていった黒い犬の影が、じっとこちらを見上げて座っていることが。
翌朝、目を覚ますと、俺の知らない記憶が脳内に居座っていた。 アスファルトのざらついた感触。 死んだ犬の毛並みの柔らかさ。 それは「聞いた話」ではなく、「俺の体験」として根を張っている。
夜になり、店に出勤する。 カラン、とドアの鈴が鳴った。
昨日と同じ席に、彼女が座っていた。 背後には、昨日よりもさらに巨大で、醜い形の黒い塊を背負って。
「今日も、一つ捨てに来ました。……聞いてくれますか?」
彼女の目は、昨日よりもずっと澄んでいる。 霊感が、最悪の警告を鳴らしていた。 このまま彼女の話を聞き続ければ、俺という人間の中身が、彼女の捨てた記憶で埋め尽くされてしまう。
「……何を、お作りしましょうか」
それでも俺は、ボトルに手を伸ばした。 バーテンダーは、客の注文を断れない。




