12話 レシートを確かめる女
その夜、彼女は来なかった。
代わりに来たのは、あの刑事だ。彼はカウンターに座るなり、現場の状況をぽつりぽつりと話し始めた。
「被害者の身元はまだ確認中ですがね。犯人は相当な準備をしていたようです。犯行の直前まで、自分の所在を分単位で証明できる『何か』を用意していた形跡がある」
俺の心臓が、嫌な脈を打つ。 彼女が三日間、正確に集めていたあのレシート。あれはアリバイの予行演習なんかじゃない。 警察に「この時間、私はこの店にいた」と突きつけるための、物理的な弾丸だったんだ。
「刑事さん。その犯行時刻は、正確にいつなんですか」 「午前二時十五分頃と見ています。犯行現場はこのすぐ裏の路地。……ここを二時に出れば、余裕で間に合う時間だ」
俺は、昨夜の自分の行動を思い出して血の気が引いた。 俺は彼女のリズムを狂わせたつもりで、いつもより十分早く、一時五十分に彼女を帰した。 だが、それは彼女にとって「犯行現場へ向かうための余裕」を与えただけだったのではないか。
「……何か思い当たることが?」
刑事の鋭い視線が俺を射抜く。 俺は口を開きかけて、止めた。
「……いえ。昨夜は、その客は来ませんでした」
なぜ嘘をついたのか、自分でもわからない。 ただ、あの女の「隙のない正しさ」を思い出すと、不用意な一言が自分を共犯の泥沼に引きずり込むような、得体の知れない恐怖があった。 それから、彼女が店に現れることは二度となかった。 端の席は、ただの空席に戻った。 俺の手元には、彼女が三日間かけて積み上げた売上の記録だけが残っている。
カシスオレンジ、一杯。 それが、一人の人間が死ぬための対価だったのかもしれない。
結局、あの日の事件について、警察から再び連絡が来ることはなかった。 被害者の女性が誰だったのか。 あの日、ベージュのコートを着てレシートを握りしめていた女が誰だったのか。 俺は何も知らないまま、毎晩グラスを磨き続けている。
ただ、深夜二時を過ぎると、時折、レジのロール紙が回る音だけが耳に残る。 あの時、彼女に渡した「一時五十分」という数字。 それは彼女を救ったのか。それとも、誰かの死を確定させたのか。 答えは、夜の街の喧騒の中に消えてしまった。
俺は今でも、テレビのニュースで「事件解決」の文字が出るたびに、画面の隅でベージュのコートが揺れていないかを探してしまう。
いつか、彼女の名前を知る日が来る。 その時、俺は自分が何を「見逃した」のかを、本当の意味で理解するのだろう。う。




