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バーテンダー春樹の苦悩  作者: 道雪ちゃん


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11話 レシートを確かめる女

 階段を下りてくる足音には、一切の迷いがなかった。


 ドアが開く。  冷たい雨の匂いと共に、あのベージュのコートを着た女が入ってきた。  昨夜、凄惨な事件があったことなど微塵も感じさせない、磁器のように滑らかな表情。


「いらっしゃいませ」


 俺は努めて冷静に声をかけた。  女はいつものように、カウンターの端に座った。  霊感は相変わらず、彼女から何のノイズも拾わない。人を殺した後の高揚も、怯えも、血の臭いさえもしない。それが逆に、人間離れした「異常」を際立たせていた。


「……カシスオレンジ、お願いします」


 同じ注文。だが、俺はあえて、いつもとは違う行動に出た。  カシスを少し多めに入れ、色を濃くした。そして、あえてゆっくりと時間をかけてシェイクした。  彼女の「時間」を、わずかに狂わせるために。


「お待たせしました」


 グラスを置くと、女は初めて、少しだけ怪訝そうに眉を動かした。


「……何か、ありましたか? 今日は少し、音が違った気がします」 「気のせいですよ。雨の日は、音の響きが変わりますから」


 俺の言葉に、女は薄く笑った。


「そうですか。……そうですね、雨はすべてを洗い流してくれますから」


 女は一口だけ飲み、それきりグラスを置いた。  店内には俺と彼女の二人だけ。  沈黙の中、俺は昨日の刑事との会話を、彼女に聞こえるような独り言のように漏らした。


「すぐ近くで、事件があったみたいですね。不気味な話です」


 女の指先が、グラスの縁をなぞる。


「そうみたいですね。警察の方がたくさんいらして……通り抜けるのが大変でした」


 彼女は事も無げに言った。「通り抜けた」――つまり、彼女は犯行現場のすぐ近くを、昨日も通ったと言っているのだ。


「被害者の方は、即死だったそうです。一突きで」


 俺がそう言うと、女はふと顔を上げ、俺の目をじっと見つめた。  その瞳は、深淵のように暗く、何も映さない。


「……腕の良いバーテンダーさんは、カクテルを仕上げる時、迷わないですよね。迷いは味を濁らせますから。殺すのも、同じではないでしょうか。迷わなければ、苦しませずに済む」


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。  彼女は隠す気がないのではない。俺が「証拠」を持っていないことを確信して、この会話を楽しんでいるのだ。


「お会計、お願いします」


 閉店の十分前。彼女は立ち上がった。  俺はレジを打ち、レシートを出した。  今日の日付。午前一時五十分。


 俺が時間を引き延ばしたせいで、いつもより十分早い。  女はレシートを受け取り、数字を見た瞬間、その表情が初めて「無」から「怒り」へと揺らいだ。


「……早いです」 「ええ。早めに閉めることにしたんです。物騒ですから」


 女はレシートを指先で強く折り畳んだ。  三日間かけて積み上げた「完璧な二時のリズム」が、俺の手によって汚されたことへの、静かな、けれど苛烈な殺意。


 彼女はバッグから一本のライターを取り出し、目の前で火を点けた。  それは、ホストの男が落としていった、あの使い古されたライターと酷似していた。


「記録は、正確でなければ意味がないんです、春樹さん」


 彼女はレシートを、その小さな火で焼き尽くした。  灰がカウンターに落ちる。  ドアへ向かう彼女の背中を、俺は霊感のすべてを研ぎ澄ませて見た。


 ベージュのコートの裾に、小さな、本当に小さな「染み」があった。  雨で濡れたのではない。  それは、何度も洗い流そうとして、逆に繊維の奥まで入り込んでしまった、黒ずんだ血の色だった。

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