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バーテンダー春樹の苦悩  作者: 道雪ちゃん


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1話 名前を呼ばれない客

 バーテンダーは、客の顔と注文を間違えてはいけない。それができなければ、カウンターに立つ意味がないのだ。


 だから俺、春樹は、グラスを磨きながら常に「境界線」の向こう側を観察している。  誰がどこに座り、何を思い、何を飲んでいるか。  俺には、人より少しだけ「見えて」しまうものがある。  客の背後に揺れる、言葉にならない感情のよどみのようなものが。


 だが、その女性だけは違った。


 気づくと、彼女はいつもカウンターの端に座っている。  黒いワンピースを身に纏い、背筋はまっすぐ。バッグを膝の上に置いたまま、彫刻のように動かない。  彼女の周りだけ、空気が不自然なほど透き通っていた。  霊感がある俺にとって、それは「清らか」というより「空虚」に近い、異様な気配だった。


「いつもの、お願い」


 初めて声をかけられた時、俺は言葉を失った。  彼女が店に入ってきた記憶が、どうしても抜け落ちていたからだ。


「……失礼ですが、何を?」


 女は一瞬だけ目を瞬かせ、悪戯っぽく微笑んだ。


「それで大丈夫」


 結局、その日は直感に従ってジントニックを出した。  氷は少なめで、ライムは入れない。  女は文句を言わず、ゆっくりと喉に流し込む。その仕草には、この世の重力が作用していないような、危うい優雅さがあった。


 不思議なのは、誰も彼女の名前を呼ばないことだった。  常連なら名前で呼ぶし、そうでなくてもあだ名くらいはつく。  でも、彼女は「お客さん」か「端の方」としか呼ばれない。  俺自身、名前を聞こうとしても、毎回、喉の奥に氷が詰まったようにタイミングを逃してしまった。


「今日は、お仕事帰りですか?」 「うん」 「この辺りはよく?」 「まぁね」


 会話は成立している。でも一向に深まらない。  彼女は自分の話をせず、ただ俺の淹れた酒だけを信じているようだった。


 ある日、店長に聞いた。 「あの端の席の女性、常連ですよね。名前、知ってます?」  その瞬間、店長の視線が一瞬だけ泳いだのを、俺は見逃さなかった。


「……春樹。無理に知らなくていい客もいるんだ。この場所(境界線)にはね」


 その夜、閉店間際。客は彼女一人だけになった。


「もう一杯、いい?」


 グラスを差し出すと、彼女は俺の手元をじっと見つめて言った。


「あなた、よく見てるよね……私には見えないものまで」


 意味がわからず、言葉に詰まる。


「ねぇ。私、ここにいてもいい? 邪魔じゃない?」


 それは客が言う言葉じゃなかった。  まるで、この世界に場所を借りている「迷子」のような、祈りに似た問いかけだった。


 翌日、違和感が拭えず防犯カメラを確認した。  彼女が座っている映像はある。俺と話している姿も、はっきり映っている。  だが、入店する瞬間が、一度も映っていなかった。  ドアが開いて、別の客が出ていく。画面が切り替わる。  次の瞬間、彼女はもう、最初からそこにいたかのように席に座っているのだ。


 退店の映像だけは残っていた。  ドアの前で一度立ち止まり、振り返って軽く頭を下げる。  レンズの向こうにいる俺を、すべて見透かしたような目で。


「あの端の席の人、いつ来てるかわかる?」


 バイトの仲間に聞いても、返ってくるのは「営業開始からずっといませんでしたっけ?」という曖昧な答えだけ。  彼女は「最初からいたもの」として、店の風景に溶け込んでいた。


 それから数日後、彼女は来なくなった。  端の席は空いたまま。なのに、誰もそこに座ろうとしない。  新しい客が座りかけ、なぜか顔を顰めて別の席に移る。


 俺は今でも、ジントニックを作る時、無意識に氷を少なめにする。  「いつもの」を頼む客が、来ないとわかっていても。


 名前を持たないまま、確かにこの店という「境界線」に腰を下ろしていた、彼女のために。

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