身体が水になる病気
身体が水になる病気。
この奇病は2x27年、突如として広がったその奇病は瞬く間に世界を混沌に落とし、常識を一変させた。
A国の細菌実験だとか、B国の戦争兵器だとか、C国の異食問題だとか、D国の異種貫通問題だとか、果ては人類の血が濃くなったりだとか薄くなったりだとか、あるいは地球温暖化のせいだとか、様々な因果関係が疑われたが、結局何一つ原因は判明しなかった。
感染症でないくせに少しずつ罹患者を増やしていき、死者を増やしていく、致死率100パーセントの病気は人類全滅へのカウントダウンを示していた。
この病気は自称有識者によって第五フェーズに分類された。
第一フェーズは指先が透明になる。
第二フェーズは片腕が透明になる。
第三フェーズは四肢が透明になる。
第四フェーズは内臓や眼球が透明となり、自力での生命活動が困難となる。
第五フェーズは全身が透明になり、いつの間にか消えてしまう。
この透明になるというのは、水の入った透明なビニル袋を想像してみればそれが正解だ。
透明になった部分を傷つけても赤い血は流れない。
透明な液体……水が出てくるだけだ。
ちなみに第一フェーズの段階で指を切り落としても無駄だ。
そんなことをしても切断面から少しずつ透明な箇所がまた浸食していく。
稀に、急性発症の患者もおり、気づいた時には全身の血液が水となっているためどこを傷付けても血は流れず、水しか出てこないという。こうなったらもう余命は幾日も残されていないらしい。
医学的なことはよく分からないけども、血液は赤いことに意味があるらしく、透明になってしまったらうまく働かないのだとか。
だから、第三、第四フェーズ以降は何らかの生命維持装置に繋がれる。
そうして、やがて寝たきりとなり、気づいた時には真夏の水たまりのように蒸発してしまうのだとか。
今や病院のベッドの大半を占めるのはこの奇病の患者ばかりであり、ガンも感染型呼吸器症候群も他の重病といわれる疾患は、軽傷とまで言われるようになった。
なにせ、この奇病以外はまだ治る可能性があるのだ。
新薬によってよほど手遅れとならなければ完治するようになったガンや神経難病も恐れることは無くなった。
だが、この奇病はまるで呪いのように治療法が見当たらない。
進行を遅らせることすら出来ない。
死体すら残さないこの奇病は、人類にとって最後の病気なのだ。
「……重いなぁ」
バケツの中身を水槽にぶちまける。
ゴミ受けを素通りしていく、サラサラな液体は何か音を発していたが、気にすることは無い。
まだ何人分ものバケツがあるのだ。
一つ一つに構っている時間など無い。
「1人、2人……これで10床は空いたか」
婦長によってベッドの回転率をあげよという話が回ってきたが今回は僕が貧乏くじを引いてしまった。
まあ、誰もやりたくは無いだろう。
倫理的にも人道的にも目をそむけたくなるような行為を、誰が好き好んで行うだろうか。
僕が今やったことは見る人によっては人殺しであり、見る人によってはただの廃棄なのだから。
“身体が水になる病気”が世界中に広まって早10年。
この奇病は第一フェーズから数えて余命は約5年なのだが、およそ3年前から第四フェーズ以降の患者に構う余力は無くなっていた。
なにせ第三フェーズから歩けなくなるのだ。
目も見えない、まともな思考も出来ないような者が増えていけば、あっという間に病院のベッドは空きが無くなる。
そして、病院スタッフの数も足りなくなる。
家族もまた、余命も少なく、死体も残さない者に対して負担と考える者が増えていった。
世界は恐慌状態となり、食料も上級国民以外は配給食に頼る者ばかり。
意思疎通も出来ず金と時間だけ消費していく奇病患者に対して、いつからか早く第五フェーズに、早く蒸発して消えて欲しいと願う者さえ現れた。
そして、病院スタッフに対して、こうお願いをする家族すら現れたのだ。
『どうか、どうか、エアコンの温度を上げるなりして蒸発までの時間を早めて欲しい。なんなら地面に落として水たまりに変えてしまってもいい。どうせ水になるのだ。証拠なんて監視カメラくらいだろう、そちらで切ってしまえばいいじゃないか』
最初は病院スタッフもこのお願いに対して唖然としていた。
何を言うのか。
我々がこんなに日夜苦労して世話を焼いているというのに。
だが、徐々に納得してしまったのだ。
どうせ助からないのだ。
どうせ治らないのだ。
どうせ水になってしまうのだ。
だったら、何が悪いというのだ。
そうして、公にこそならないが第四フェーズ以降の患者に対しては“水”として扱うことになった。
透明な膜の張った、人間の形をした水。
それを曲げて伸ばしてバケツに押し込めて、ピンで膜を貫いて中の水を抜く。
後はバケツの中身を……ただの“水”を下水に流してしまうだけ。
我々は奇病患者の処理をしているわけではなく、”水“を廃棄しているだけ。
そう思い込むことで、世界は少しだけ瀬戸際から戻ってこられた。
「……せめて特別ボーナスくらい欲しいよなぁ」
貰ったところで、今の世界で多少美味しい食事を取れるくらいしか使い道は無いのだが。
……いや、都会ではまだマシな生活を送っているらしい。
結局のところ、病気が蔓延して苦労するのは医療従事者だけだ。
他の人間は金の心配こそすれ、金さえ出せば後は他人事。
僕達こそが病気の最大の被害者といえるだろう。
「205号室の田中さんと306号室の鈴木さんは一昨日第四フェーズに進行したんだったかな。後は家族の了承があれば……」
たまに常識人ぶって、人殺しだ外道だと拳を振り上げる人間がいる。
だが、だったら家に帰してもいいとこちらが言い返せば途端にその拳は下がる。
そして、最後には頷くのだ……家族の殺処分に。
「さて、もう一往復しないとな……?」
もうひと踏ん張りと、空になったバケツを専用の台車に運んだ時だった。
「あ――」
ふと台車を握る手が視界に入り……次の瞬間にはポケットからナイフを取り出し僕は自分の指を刻んでいた。
「――あ、あああああああああああああああああああああああああ」
何度も何度も何度も刻み、しまいには斬り落とす。
洋服が濡れるが構うことは無い。
ただただ、僕は真っ赤な血を見たくて、ナイフを振り下ろした。
何度も何度も、指だけじゃなくて全身に。
「なんで、なんでなんでなんで僕が、っぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
だけど、どの切断面からも流れるのは決して真っ赤な血ではなく。
――透明な“水”であった。