第5話 わかってくれるだろサラヴェリーナ
引っ張りあげられてようやくふらふらと立ち上がった女は、あらためて見るとひどい恰好をしている。薄い布地でできた黒のドレスが破られ千切られ、もはや服というより胸元や腰の曲線を際立たせるための演出装置でしかない。アムステルダムの飾り窓に並ぶ女たちも顔負けだ。これで夜道を歩けば、その気のないやつでも原始的な欲求に支配された猿へと返る。
「……ありがとう。あの……こほんっ。よい働きでした、不浄の者よ。きっと女神アウラドリイス様もお喜びになられています」
「いいよ、気にすんな。お前ひとりか? 他の女とガキ共はどうした?」
「あの男が目を離した隙に逃がしました、でもすぐに見つかって……」
「なるほど。それでキレてたのかあいつ」
会話を交わしながら、自然な流れで離れようとする女の手。滑る指を追って細い手首を掴んだ。困惑した表情で、女が俺の顔と握られた手首を交互に見やる。
「どうしました……?」
「ん、ちょっとな……」
さて、どうしてくれようか。目の前の女は俺たちクズ共に誘拐された被害者で、殺しの目撃者。しかもほかの女子供を無条件で逃がすなんて余計なことまでしてくれた。まともな倫理観と正義感をもった人間は厄介だ。こいつを生かしておくのは後々の面倒の種になるかもしれない。いまここで始末しておくべき。……なんだろうが……。
「……お前、名前なんだったっけ? サラなんとか……サラドリーネだったか?」
「……サラヴェリーナよ、サラヴェリーナ・エルウィン……」
「そうか、サラヴェリーナ。俺はネイトな。ネイト・ヘイル。よろしく」
「よろしく……?」
微笑みながら握手のように握った手首を軽く振る。困惑顔のまま、サラヴェリーナが控えめにうなづいた。よし、流されやすい。
「預言者なんだろ? 自分の未来は視えねえのかよ?」
「……なにが言いたいのです……?」
「なにって……」
掴んでいた手首を引き、サラヴェリーナの腰を抱き寄せた。紫水晶の瞳が驚きに見開かれて息を呑む声が聞こえる。柔らかく弾力のある肉の感触が胸にぶつかり、俺たちのあいだで潰れて形を変えた。
「ああ、マジで天然物だな。いーい身体してんだよなお前。胸も尻もいい感じに肉付いてて、痩せすぎてねえのに締まるところは締まって……最高。俺の馴染みの女たちはあちこち手を加えてるやつが多くてさ。見た目は本物っぽくても触ると結構、違和感が――」
「なんの話よ! 放しなさいこの穢れたバカ! 助けてくれたからって、誰がここまでしていいなんて――」
「残念。俺はあのクズ共を殺したかっただけで、お前を助けたつもりはないんだわ」
必死に胸を押し返そうとする両腕の非力さを楽しみながら、サラヴェリーナの顎を掴む。かすかに血の匂いが残る指先に少しだけ力をこめて上を向かせ、至近距離で顔を見下ろす。……やっぱりこいつ、妙にそそられる。誰かに似てる気がするんだよな。
「なあ、サラヴェリーナ。俺はこの世界でもっと愉しみたい。もっともっともっと愉しみたいんだよ。誘拐に殺人、俺のしたことがどこかで誰かに漏れるとしたら、まずはお前とお前が逃がした奴らからだ。全員、口封じしておかないと」
「なっ……」
掴んだ顎を無造作に横へと向けさせた。視線の先、荒れた道のすぐ脇には、厚い枝葉で覆われた暗い森が広がっている。
「見ろ。あそこ、森に向かった足跡が四人分しっかり残ってるだろ。うちじゃあ狩りも嗜みのひとつでさ、俺は昔から猟犬並みに獲物を追うのが得意なんだ。逃げられると余計に燃える、死ぬほどあきらめが悪い。あのガキ共も必ず見つける。意味、わかるな?」
「……っ、そんな……」
勝手に“意味”の想像を膨らませ青ざめるサラヴェリーナと再び向き合う。揺れる瞳を見つめながら顎から頬へとそっと撫であげ、指先で耳の輪郭をなぞる。猫の喉を愛でるように耳の裏側の付け根あたりを優しく擦ると、華奢な肩が震えて小さく身じろいだ。隠しきれない感度の良さ、これもだいぶ良い。笑いそうになるのをこらえて耳元に唇を寄せた。低くゆっくり囁きかける。
「だけどな、サラヴェリーナ。俺もそこまで非道じゃない。お前が俺と一緒に来るなら全員見逃してやってもいい。お前ひとりの体で四人が救えるなら、悪い話じゃねえだろ? 女神様はこの尊い自己犠牲をお喜びになってくれるんじゃねえか……?」
「女神……さま……」
地理も文化も歴史も常識も、なにひとつわからない異世界でガイドブックもマップアプリもなしの一人旅。それはそれで乙かもしれないが、俺はただ愉しみたいだけ。生活に苦労したいわけじゃない。初心者に親切なチュートリアルをほどこしてくれるNPC役がいないなら、命と弱みを握った現地の女をナビ兼世話係として連れ回すのも仕方のない選択。なあ異世界。だってお前ってそういうもんだろ? どんな主人公にも、必ず都合のいい女が現れる。
「まあ、見捨ててお前ひとりで逃げるっていうなら試してみてもいいけどな。 預言してみな? お前はこれからどうなる?」
「……私の予言は……女神様からの神託によって得るもの……視たいと思って、視えるものでは……」
「いまは無理ってことか? じゃあ、なおさら俺に委ねたほうがいい。想像してみろ、見捨てた四人の影がつきまとう人生……お前に耐えられるか? 俺だってお前みたいに美人で、か弱い女に誰かの死の責任なんて負わせたくない。悪いようにはしないさ、わかってくれるだろサラヴェリーナ」
「だめ……そんな……」
首筋から鎖骨、胸元へと指を這わせる。かすかに漏れる吐息、手袋越しでも伝わる熱と鼓動の激しさ。自分の命だけじゃなく四人の女子供の命まで天秤に載せられたゆるやかな脅しの最中だってことを除いても、こいつ、たぶんめちゃくちゃチョロい。体から堕とせるタイプ。サキュバスがどうとか生まれながらのアバズレだとか言われてたのは、ただの侮辱的な比喩ってわけでもないらしい。なら話は早い。肌から、耳から、目から、じっくりと甘ったるい毒を注ぎ込んで、俺を拒むことへの疑念と俺を受け入れるための理由を造りだしてやればいい。
「いいものもある、ほら」
鞘の金具に引っ掛けていた銀製のチョーカーを手に取って、これ見よがしにサラヴェリーナの眼前に掲げた。古来から、男が女に贈る装飾品の意味は無言の宣言。所有の証、支配、マーキング、誰に属しているかを暗に示す目印。受け入れさせる悦びと、受け入れる悦びを芽吹かせる官能の種。月明りを浴びて銀の鱗粉を撒き散らすようにきらきらと輝くそれを見て、紫水晶の瞳がとろけていく。こいつの元来の性質に由来する抗いがたいなにかが、理性の縁をじわじわと侵食していく。
「あっ……」
チョーカーの輪の切れ目を首筋にあてがい、押し進めた。拒まない。こいつはもう、俺のものにされる現実に心のどこかで折り合いをつけはじめている。生唾を飲んだ喉がわずかに上下して、抵抗もなく首の付け根に三日月形の銀色が収まった。
「ああっ……!」
「!」
途端に、夜の闇が一瞬だけ赤く脈動した。チョーカーが溶岩めいたオレンジ色に光り、じゅっ、と肉の焼ける音がする。サラヴェリーナが短い悲鳴をあげて胸に縋りついてきた。鉄、焦げた砂糖、硫黄、腐りかけの果実、複雑に混ざりあった重く甘い奇妙な匂いが鼻をかすめる。
「あつ……い……っ! いや……! 外して……!」
「待て、動くな、いま――!?」
……どうなってる。髪をかきわけてうなじを確認すると、三日月型だったチョーカーが綺麗な輪になって閉じていた。外そうにも継ぎ目が見当たらない、指を差し込む隙間もない。どうにか爪の先だけでも引っ掛けられないか奮闘しているあいだにも、オレンジは輝白色に変わり、どんどん温度が上がっていく。
「あああああっ――!!」
ほとんど絶叫に近い声をあげてサラヴェリーナの体から力が抜けた。うしろに倒れこんだ体を抱きとめ、呼吸をたしかめる。ぐったりとはしているが意識はあった、のけぞった頭を俺の腕に預けてかすかに呻いている。問題はその下――あらわになった首元。
「……冗談だろ……」
あったはずのチョーカーが消えていた。代わりに、肉の奥まで刻み込まれたような深紅の紋様が焼きついている。呼吸に合わせ、それはかすかな光を発しながら脈打っていた。
★都合のいい女をゲットするご都合展開、開幕――!(少年誌風煽り文)