第九話 妖狐、目覚める
──山が、吠えていた。
轟音。噴き上がる土。地が裂け、火花とともに黒煙が立ちのぼる。斜面が崩れ、木々が飲まれていく。
まるで山そのものが、生き物のように蠢いていた。
宵乃は咄嗟に地に伏せた。熱風が背をかすめる。腰の鈴が激しく鳴り、身体の奥にまで警告の音が響く。
(……これが、タカノメノカミ……!)
山の神──本来はこの地を守るはずの存在。しかし今、その巨体は土と岩の化身となり、まるで山そのものが荒れ狂っているかのようだった。どろどろと赤く煮えたぎる熱が、宵乃の肌まで焦がすようだ。
「俺たちを誘い出す罠だったのか……」
日野介が悔しげにつぶやく。彼の腕の中には、傷だらけの茂吉。宵乃は震える膝をなんとか立て直そうとするが、力が入らず倒れこんだ。
熱い──息がうまくできない。火山灰のような細かい粉塵が漂い、喉を焼く。
「宵乃、逃げるぞ!」
日野介が叫ぶ。しかし来た道は既に岩と土砂で埋まっていた。前には荒れ狂うタカノメノカミ、後ろには崩れた山道。宵乃たちは完全に孤立していた。
そんな中──ただ一人、揺るがずに立っていた者がいた。
白髭の老人。
熱気と煙が渦巻く中、微動だにせず笑みを浮かべている。
(カナギ……)
宵乃は老人の目を見た。その目に秘められたのは──試すような冷たさと、どこか愉悦の色。
宵乃は深く息を吸った。
(もう、他に道はない……)
「カナギ、助けて……。封印を、一時だけ──解く」
宵乃はそっと手を伸ばす。宵乃は震える指で、老人の額に貼られた“見えない呪符”をそっと剥がした。
──パキン。
乾いた音が、空気の中に走った。直後、風が巻いた。空間が揺れ、何かがはじけたように。
──次の瞬間。
老人の全身に白い閃光がほとばしる。老人の身体が震えた。背が伸び、皮膚が裂け、白銀の毛がうねりながらあふれ出す。爪が鋭く変化し、九本の尾が宙を切った。
眼前に立つのは──巨大な妖狐の姿。
「……ふう。ようやく息ができる」
重く響く声が、辺りの空気を圧する。
◆
妖狐・カナギ。
元は神に近い存在。
高い霊力を宿す、誇り高き白銀の狐。
だが、あるとき人の血肉に手を染め──その味を覚えた。
百の命を贄とし、ついには鎖に繋がれ、処刑を待つ身となった。
その命を救ったのが、宵乃だった。
ただし、条件は一つ。宵乃の命が尽きるまで、妖力も言葉も封じられ、老いた人間の姿で生きること。妖狐にとって、人間に従う契約とは、なによりの屈辱。
それでも、妖狐はそれを受け入れた。わずか数十年の“封印”を、長い生の中の罰として──。
「忌々しい檻よ、ようやく砕けたか」
カナギは薄く笑みを浮かべ、ちらと宵乃を一瞥した。
「お前が死ねば、契約は終わる。今この場で喰うこともできる」
カナギの尾がゆらりと揺れる。
「命を救われた恩は忘れておらぬ。約定を破るほど堕ちてはおらん」
彼の視線の先には、タカノメノカミ。火を呼び、地を砕き、なおも蠢く災厄の塊。
「見よ、“本当の”私の力を」
カナギは静かに尾を揺らす。空が渦巻き、雲が瞬く間に広がった。大粒の雨が叩きつけ、熱気を冷まし蒸気が濃く立ち上った。凄まじい雷鳴が轟く。
「小娘よ、下がれ。巻き込まれれば命はない」
カナギがニヤリと笑うと、滝のような雨が降り始めた。雨がタカノメノカミの土の肌に触れるたび、蒸気が噴き上がり、視界を白く染めた。
宵乃は、残った力を振り絞って、日野介・茂吉・自分の三人を守る結界を張る。青白い結界が淡く周囲を包む。
──カナギは天に向かって咆哮を上げた。
彼の妖気が天を駆け抜け、空の色が変わる。黒雲が渦を巻き、滝のような雨が、まるで天井を破ったように降り始めた。雨がタカノメノカミの身体を叩く。触れるたびに、白い蒸気が噴き上がり、世界が霞む。
(あれほどの熱が……消えていく)
宵乃は、ただ呆然とその光景を見つめていた。
大地を揺るがす妖気。天を裂く力。カナギと山の神、そのぶつかり合いに言葉を失う。
そして──
「終わらせよう」
カナギが九本の尾を天に掲げると、空気が震え、空が軋む。
集まった妖気が、蒼白い光へと変わる。
やがて、それは一振りの“槍”となった。
凍てつく稲妻のように、鋭く、冷たく、すべてを貫く刃。
「──これが、我が“力”だ」
カナギが腕を振り下ろした。
その瞬間、妖気の槍が真っ直ぐに放たれ、タカノメノカミの“核”を貫いた。
轟音。
大地が裂け、山が砕け、熱が吹き飛ばされる。
その姿は、次の瞬間には──跡形もなかった。
◆
雨は止み、空には薄い陽の光が戻っていた。
あの巨大な神の姿は、もうない。そこには、深く穿たれた地割れが残っているだけだった。
宵乃は、膝をつきながらそっと呟く。
「……終わった…………」
そして、ふと顔を上げる。
目の前に立つのは、再びあの白髭の老人だった。その顔には、わずかに疲労の色がにじんでいる。
「……妖気を使い果たした。しばらくは眠らせてもらうぞ」
宵乃はそっと顔を上げ、小さく言った。
「……ありがとう、カナギ」
「礼には及ばん。我らの契約は、まだ続いておる……お前の命が、尽きるその日までな」
そう言い残して、カナギは再び口を閉ざした。
宵乃は立ち上がろうとするも、膝に力が入らず、ふらりと体が傾く。すぐに日野介が駆け寄り、彼女の肩を支えた。
「……地盤が脆い。長くはいられない、急ごう」
日野介は茂吉を背負い直し、宵乃は、老人の姿に戻ったカナギの腕をとる。静かに、ゆっくりと、肩を貸した。
戦いの爪痕をその身に残した四人は、崩れかけた山を、また歩き始めた。焦げた木々の匂いが微かに残り、遥か遠く、空に薄い陽が差していた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回は山の神vs妖狐というスケールの大きな戦い!!
少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
さて、今回、老人の正体がようやく明らかになりました。茂吉の怪我も深そうで、次回はどうなるでしょうか。
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