第六話 剣の道、その先に
まだ、日が暗いうち──
日野介は寝床をそっと抜け出した。寝床といっても、あばら家の土の上に藁わらが敷かれただけの、冷えきった場所だ。
宵乃はまだ静かに寝息を立てている。老人は、柱にもたれた姿勢のまま、目を閉じている。昨夜からずっとそのままだ。寝ているのかどうかさえ、分からない。
昨夜、茂吉は、あばら家まで一行を案内したあと姿を消した。
(忍びの生態は読めないな……)
外は静かだった。湿った空気に、まだ夜の匂いが混じっている。日野介は腰の刀を抜き、静かに構えた。刀の素振り。毎朝の日課だ。全力を出しても、妖狼にやられた傷はもう痛まない。
あの日──偶然立ち寄った村。 子どもから老人まで、村人たちがまるで魂を抜かれたように列をなして山へと歩いていた。
その先頭にいたのは、異形の狼──妖狼。 肩と足の一部に白い毛を残すが、全身を黒い靄もやに覆われた獣。二本足で歩く姿は、人と獣の狭間のようだった。
妖狼の目を見た瞬間、日野介は、動けなかった。刀を抜こうとしても、腕が硬直した。俺に”妖”の気を纏まとうものを切れるのか……?疑念が頭をよぎった。次の瞬間には、妖狼の爪が日野介の身体に食い込んでいた。
自信がないものは、命を賭した戦いに勝てるはずがない。刀を持つものなら誰しもがわかる、至極当然のことだ。
宵乃は「日野介は村人を斬らなかった」と言ったが、真実は違う。日野介は村人ではなく妖狼と相対していた。ただ、怖れに縛られ、動けなかっただけだ。
⚫︎⚫︎⚫︎
「朝から精が出るな」
頭上から声がして、一瞬身構える。
見上げると、茂吉が木の枝に腰掛けていた。肩には大きなフクロウが止まっている。フクロウの目は金色に光っている。
「フクロウを従えているのか」
「そうだ。夜の間、こいつが助けてくれる。俺たちは夜目が利くと言っても完璧じゃない」
「今夜は、何かあったのか」
「もうすぐ合戦が始まる。千代田信勝の軍勢が、嵩原家の領地に攻め入った。遠山家も動かざるを得ないだろう」
「そうか……」
日野介は嘆息する。千代田信勝は勢力を急激に広げている大名だ。今、最も勢いがあると言ってよい。嵩原家は、嵩原宗古たけはらそうこを主君とする名家であるが、百戦錬磨の嵩原宗古をもってしてもその勢いを止められるかどうか。
「仲間のことが気がかりか」と日野介は尋ねる。
「いや。お屋形さまは賢い。立花様もついている」
「……合戦が始まれば警戒も厳しくなる。急がないとな」
茂吉は無言でうなずいた。空の端が白みはじめていた。茂吉が指笛を吹くと、フクロウは飛び上がり、山の向こうに消えた。茂吉は音もなく木から飛び降りると、あばら家へ向かった。その背中に、日野介は声をかけた。
「黒衣の者について、茂吉殿は何かご存知か?」
「噂だけだ。確証のない話は、かえって混乱を招く」
「飛賀の里には、確かな情報があると聞いたが……」
「分からない。私の任は、宵乃様を無事に飛賀の里まで送り届けることだ」
茂吉がこともなげにそう言うと、日野介はそれ以上は聞くことはしなかった。
⚫︎⚫︎⚫︎
朝霧が谷間に残る早朝、宵乃たちは山道に入った。忍びの茂吉が音もなく先導する。
「ここから先は険しい。気をつけてくれ」
茂吉は時折、木の上に登り、無言で周囲を確認する。
老人は杖をつき、息一つ乱さず歩く。宵乃もまた、軽やかに岩や倒木を飛び越え、山を駆ける。自然と、日野介が遅れをとっていた。
(参ったな。何者だ、あの老人は。全く息を切らさない。それに……宵乃も)
道なき道を進んでいる。日野介の額に汗がにじむ。
ふと顔を上げると、宵乃が先で立ち止まり、振り返っていた。
(年下の少女に先を行かれるとは、情けない……)
日野介は宵乃は隣に並んで歩き始めた。宵乃が日野介にたずねる。宵乃から話しかけられることは珍しい。
「都へ向かうには……遠回りになる。本当にいいの?」
「ん?」
「黒衣のこと、私が勝手に追ってるだけなのに」
(いや、それだけではないんだ。)
日野介は自分の話をするべきか、逡巡した。余計な身の上話は、宵乃の目的の邪魔になるかもしれないからだ。しかし、隠し事をしたまま旅を続けるのも違う。
「……本当は、借りを返すためだけじゃない」
「どういうこと?」
日野介は少しだけ目を細めた。日野介の胸に、記憶がよみがえる。そして、ゆっくりと宵乃に話し始めた。
──木の床を踏む音。白い道着の背中。
師──世良周一。
その道では知らぬ者のいない一世流の開祖。刀の戦いでは負け知らず。素手で刀をいなす達人でもあった。
「剣の道を極めよ。剣を極めれば、妖のものも、邪のものも、斬ることができる」
──だが、あの冬の雨の日。道場破りが現れたあの日。
紫の刀を帯び、頬に一筋の傷を持つ、痩せた男。いつもの通り、師は刀を抜くことさえせず相手を倒すと、門下生の誰もが思っていた。もちろん日野介も。
しかし、そうはならなかった。
相手の剣術は、普通の剣術ではなかった。日野介が教えられた、”正しい剣術”は、早く、鋭く、静かで無駄がないことが美徳された。だが、頬に一筋の傷がある男の剣先は、曲がり、うねり、隙だらけに見えた。敵の周囲に漂っていた、禍々しい気──
しかし、師は相手の刀を捕えることができなかった。
やがて、師・世良周一は刀を抜いた。そして、──敗れた。
師はその場で命を落とし、道場の看板は真っ二つに斬られた。
日野介は、その男の横顔を決して忘れることはできない。
師を失った日野介は、目標を見失った。
師に追いつきたい──その一心で、日々稽古に明け暮れていた。それなのに、追うべき背中は、もうどこにもなかった。
ぽっかりと空いた心の穴を埋めるように旅に出た。
ただ強い相手を探し、彷徨うように剣を振るい続けた。剣を極めたい。しかし、その先に何があるのか、自分でも分からなかった。
荒れていた。刀を抜くこともあった。理不尽な相手には、ためらいなく打ち据えた。
それでも──日野介は、一度も負けたことがない。
──だが、心のどこかで知っていた。
それが本当の戦いではないということを。
そして──あの日。
偶然立ち寄った村で、宵乃と出会い、妖狼と対峙した。
日野介は、妖狼の腕を斬り落とした。
そのとき、確かに手応えはあった。──ただ、人ではない、何かの。重く、鈍く、冷たい。刃の奥に、ぞっとするような気配があった。
あれは──妖。
日野介は、気づいている。
あのとき、宵乃の力によって妖気は弱められていたことを。あのまま全ての妖気を纏っていたなら、自分の刀は届かなかったかもしれない。
……けれど、全く通じなかったわけではない。
だからこそ、確かめたい。
「剣を極めれば、妖も邪も斬れる」
──あのとき師が言った言葉は、真実だったのか?
それとも、届かなかった理想だったのか。
試したいのだ。
もう一度。
本当に、自分の剣が、妖を斬れるのか。
「そっか。日野介は、私と似ているところがあるね」
話を聞き終えて、宵乃は日野介の目をまっすぐ見つめ、そう言った。その言葉に深く立ち入ることはなかった。
⚫︎⚫︎⚫︎
一行は、わずかな休憩を挟みながら、狭く険しい山道を進んでいた。
先頭の茂吉が、急に立ち止まる。
風のない空気の中、次の瞬間──彼の足元の落ち葉が赤々と燃え上がった。
だが、その炎は一瞬で掻き消え、黒く焦げた跡だけを残した。
「幻焔の術……」
茂吉の声が、低く沈む。次の呼吸で──彼の手が動いた。
俺たちに向けて、無言、の合図。
空気が変わった。
葉の一枚が、かすかに震える。風もないのに──気配が、近い。
日野介は、刀の柄に手をかけた。
「囲まれている」
宵乃が静かに言う。老人が、無言でうなずいた。
「来るぞ」
日野介は、刀を抜き放つ。
──背中合わせに、四人が陣を取った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回は日野介の過去を中心に描いてみました。
少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
ここから物語は中盤に入ります。
山道で襲ってきた敵の正体は?
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次回は、対決!の予定です。
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