第五十六話 決戦の前、夕影に沈むとき
木漏れ日の差す森の中──。
宵乃たちは常世山を目指し、深い森の中を進んでいた。カナギは、目立たぬように小さな狐の姿へと戻り、宵乃の肩に乗っている。
森の空気は湿っていて、土と木の匂いが鼻にまとわりつく。この森には道という道がない。宵乃たちは落ち葉を踏み、大きな倒木を越えて進んだ。
塔子は慣れぬ足取りで何度かつまずいた。彼女が足を擦りむいていることに気づいた日野介が、立ち止まって塔子の前にしゃがみ込んだ。
「おぶろう」
「えっ、でも……」
「戦う前に倒れたら意味ねえ」
少し顔を赤らめながらも、塔子はおとなしく日野介に背負われた。
やがてカナギが、「ちょっと見てくる」と言って、ふっと宵乃の肩を降りると、素早く近くの木に駆け上った。
「どうだ、牛車は見えるか?」
日野介が下から声をかける。
「……前は見えん。木々が密すぎる。ただ、すぐ東に川が流れているな」
塔子がその言葉に頷いた。
「ええ。母から聞いたことがあります。帝が非常時に脱出する際は、その川から舟で逃げるようになっていると」
「川伝いに行けば楽かもしれねえが、目立つのは避けたい。このまま進むしかないな」
日野介が静かに言い、宵乃も同意するように頷いた。
そのまま、宵乃たちは、音を殺しながら森を進んだ。木々の合間から差し込む光は、次第に赤みを帯びてきている。太陽が、ゆっくりと西へ沈みかけていた。
ふと、日野介の背中で塔子がぽつりとつぶやいた。
「普段なら、貴子とは……思念で会話ができます。しかし、今は牛車を覆う結界のせいで、それができません」
「心配だな」
日野介がぼそりと答える。
「きっと妹も何か策を講じているはずです。少しでも会話ができれば」
「なるほどな。思念で会話か……。何とかして相手の隙をつかないとな」
落ち葉の上を慎重に歩きながら、日野介は答える。森の中は次第に薄暗くなっている。夜が近づいている。
「あの……話は変わるんですけど……。日野介さん、言いにくいのですが」
塔子が少し遠慮がちに声を落とす。
「どうした?」
「その……殺気を抑えることはできませんか? でないと、近づく前に気づかれてしまいます」
「俺から出てるか?」
日野介は思わず、振り向いて塔子の顔を見た。
「ええ、とっても」
おかしそうに塔子は笑った。
「そうか……でもどうやって消すんだ?」
日野介は困ったように眉をひそめる。
「栗拾いに行くと思えば、どうにかなります」
そう言って、塔子はまた笑った。
「……ははは、なるほどな。じゃあ俺は、でっかい栗を探すとするか」
森に微かに響いた二人の笑い声が、宵乃の耳にも届いた。ふと気づけば、自分の頬もゆるんでいた。
(こんな時でも、人は笑える)
宵乃は胸の奥で、そっと息をついた。塔子の無邪気な笑顔と、日野介の照れたような声。そのやり取りが、張り詰めていた宵乃の緊張をほぐしてくれた。
すると、宵乃の肩で耳を澄ませていたカナギが、ひょいと宵乃の肩から日野介の肩に跳び移って、塔子に問いかけた。
「殺気、俺は大丈夫なのか?」
「……ええ、カナギ様からはほとんど感じません」
「おいおい、俺にはあって、妖狐にはないってのか?納得がいかねえ」
日野介が口を尖らせる。
「人間への憎しみが薄れてるからかもな」
カナギがボソリと呟く。
「……でも、どうしてカナギ様は妖怪なのに宵乃さんたちのことを助けているんですか?」
塔子が、ふと小狐を見つめて問いかけた。
カナギはぴくりと耳を動かし、しばし沈黙する。やがて、宵乃と日野介を交互に見てから、低く呟くように答えた。
「……いいやつだからさ。お前たちには、絶対に間違ったことをしない信念がある。それが、羨ましいんだと思う」
その言葉に、宵乃は胸が熱くなるのを感じた。
「数百年生きてきて……人間のことを好きになったのは、お前たちだけだ」
静かな風が木々の間を抜け、葉を震わせた。
カナギが鼻をひくひくさせて、日野介の肩から飛び降りた。ぴたりと前方を見据える。
「……コモリの匂いがする」
「近いな」
日野介も気配を読み取ったようだ。
やがて、森がぱっと開けた。先頭にいたカナギが、止まるように指示をした。
そこには、色が抜けた煤けた鳥居がひとつ、ぽつりと立っていた。その先には石段がずっと上まで続いており、階段の前には一台の牛車が止まっていた。
(まだ気づかれていない)
宵乃の心臓が高鳴る。 宵乃の腰に吊るされた青い鈴は、リンリン……と震えている。宵乃は音が鳴らないように、ぎゅっと手で鈴を握りこんだ。
牛車の帷が開き、縄で縛られたコモリが姿を現した。髪が乱れ、血の気の引いた顔をしている。その隣には、塔子と同じくらいの背丈の少女がいた。澄んだ瞳と塔子に似た顔立ち。
「あれが……貴子……」
日野介がかすれた声で呟く。
宵乃はコモリの姿を見た瞬間、思わず声を上げそうになり、唇を噛んでこらえた。
牛車の前には、白い仮面をかぶった長身の男が立っていた。その周囲には黒の法衣を着た男たちが三人、さらに異国風の衣装を着た者たちが二人、緊張感を漂わせている。
「兵や忍者はいねえな……」
日野介が唸る。
「おい、今一気に攻めたら勝てるんじゃないか? 茂吉も、紫の刀の男もいない」
「……いいえ」
塔子が首を振った。
「下手に近づけば、二人の命が危ないわ」
そのとき、風がまた吹いた。鳥居の先、牛車のすぐ横で、貴子がゆっくりと顔を上げた。彼女の目が、一瞬であったが、森の奥──こちらを見つめた。そして、すぐにまた顔を伏せた。
(貴子様は気づいてる……私たちの存在を……!)
「……どうすれば、あの結界を破れるの?」
宵乃が問いかけると、塔子は小さく目を閉じた。
「……貴子なら、きっと、内側から結界に働きかける方法を考えているはず。だから、外側からも同時に衝撃を与えれば……」
「挟み撃ちか」
日野介が低く呟いた。
「ええ。でも、もしわずかにでも時機を誤れば、結界が反応して窮地に立たされるでしょう」
塔子は目を開けて静かに答えた。
日がほとんど沈みかけ、空は墨を溶かしたような濃紺に染まりつつあった。鳥居の奥に続く石段は、わずかに残る夕光にかすかに照らされ、まるで闇に飲まれる直前の道筋のように浮かび上がっていた。




