第五十四話 黒夜龍の封印、癒しの儀式
内裏の中──千星家の庵。
束の間の静寂のあと、カナギが静かに口を開く。
「さて──牛車を追うか?」
その問いに、聖子はゆっくりと顔を上げた。細い指が膝の上で静かに重なる。
「牛車が向かう先は……おそらく常世山でございましょう」
「常世山……?」
日野介が低く呟く。塔子が続けた。
「都の北にある山です。そこには古き封じの結界が張られています──」
「封印?」
日野介が返す。
「――夜狩の封と呼ばれています」
聖子がそう言うと、カナギが目を見開いた。
「夜狩の封か。伝説じゃなかったんだな」
カナギの声は重く、庵の空気をわずかに震わせた。
「知ってるのか?」
日野介が尋ねる。
カナギは低く鼻を鳴らす。
「ああ、知っているとも。ずっと伝説だと思っていたがな。そこに封じられているのは……」
「黒夜龍……?」
ずっと黙って聞いていた宵乃が、はじめて口を開いた。
「宵乃も知っているのか?」
と日野介が問う。
「母と祖母から聞いたことがある──決して起こしてはならぬ存在と」
「そうだ。黒夜龍……」
カナギは低く唸った。
「一千年以上も昔──都を飲み込もうとした異形の龍です。我々の先祖が封じたのです」
と聖子が静かに言った。聖子は話を続ける。
「その封印を守るために、千影神社が建てられました。常世山は千影神社の真西に位置します──」
「”黒衣のもの”たちは……その封印を解こうとしているのですか?」
宵乃が尋ねる。宵乃の言葉を肯定するように、聖子は頷いた。
「そう考えれば、全ての辻褄が合いま……」
しかし、その言葉の途中で、聖子の身体がふらりと傾いだ。顔色がさっと青ざめ、細い指先が畳に力なくついたかと思うと、そのまま静かに崩れ落ちそうになる。
「お母様!」
塔子がすぐさま駆け寄り、その身を支える。聖子は塔子の肩に寄りかかるようにして、かすかに息を吐いた。
「……すまぬ、少し、話し過ぎましたようじゃ……」
苦しげな呼吸の合間にも、声にはなお気品が宿っていた。聖子は微笑を浮かべながら、ゆっくりと宵乃たちに顔を向ける。
「申し訳ありません、少し……休ませていただきます」
そう言うと、塔子に支えられながら静かに寝台へと戻った。
塔子は母を寝台に寝かせると、そっと布団を整えた。そして、静かに立ち上がると、宵乃たちに向き直り、柔らかな笑みを浮かべた。
「──では、ここからは私がお話しします」
その声は幼さを残しながらも、凛とした決意に満ちていた。
「……黒夜龍が目覚めれば、霊峰・不二山に眠る白神龍もまた呼応するでしょう」
宵乃が静かに呟く。
「──”黒夜”が明けるとき、”白き神龍”もまた目覚める──。千鳥家の言い伝えです」
「千星家と同じ……」
塔子はわずかに目を見張った。
「黒き龍と白き龍。対の存在、というわけか」
カナギが低く呟く。
「そうです──均衡を司る二つの龍が同時に目覚めれば、この国は灰燼に帰します」
塔子がそう話すと、息を呑む音が、室内に静かに広がった。
そのとき、不意に外から駆け足の音が聞こえた。塔子が戸を開け、迎え入れる。
入ってきたのは千星家の侍女だった。額に汗を浮かべている。
「お伝えします……。ただ今、京極家より密報が届きました」
「……何があった?」
塔子が問う。
「千代田信勝公が──暗殺されたとのことです」
侍女の報告に、一瞬その場の空気が凍り付く。
「──なに?」
日野介の声が震えた。
「誰に?」
カナギが低く尋ねる。
「千空道継殿とのことです」
侍女が重く答えた。
「……つまり、どういうことだ?」とカナギ。
「六万の兵が……今や主を失ったということです」
塔子が声を潜めて言う。
その意味するところを察し、宵乃は顔を青ざめさせた。
「まさか……六万の兵ごと、”黒衣のもの”の手に──?」
宵乃の顔色が青ざめる。
「そういうことか……」
カナギが唇を歪めた。
「すべては仕組まれていた計画ということか。信勝はただの傀儡に過ぎなかった。信勝を謁見に誘い出し、軍から引き離し、暗殺し……。全ては兵を丸ごと掌握するため」
カナギの目が細められる。
「まさに、奴らの思惑通り──だ」
その冷酷な現実が、庵の空気をさらに重く沈ませた。
「──ならば、一刻の猶予もありません」
塔子が静かに口を開く。
「……塔子様」
宵乃が振り向き、息を詰めたように言った。
「急ぎましょう。今こそ、結界守たる力を合わせる時です」
塔子は小さく頷く。
「分かりました。ただ……出立の前に、清めの儀を行わせてください。これは回復のためだけではありません。これより向かう常世山の結界に抗うには、心身を整え、気の乱れを祓う必要がございます」
急ぎながらも儀式の重要性を感じ取った宵乃たちは、無言で頷いた。
塔子は急いで三人を隣室へ案内した。
そこは、社のような神聖な空間だった。朱塗りの小さな鳥居が据えられ、両脇には榊が立てられている。祭壇の木彫りには、星と鳥の紋が刻まれていた。
「──昔、ここには千鳥家の御先祖も住まわれていたと伝えられています」
塔子は静かに語りながら祭壇の前に進み、両手に水晶玉を掲げた。淡い光が水晶の中に脈打つ。
宵乃・日野介・カナギは中央に並んで座した。
祭壇の前に立った塔子の表情は、年若き少女とは思えぬ厳粛さに満ちていた。
「では──始めます」
塔子が目を閉じ、澄んだ声で祈りの言葉を紡ぐ。
「──清き流れよ、穢れを祓い給え。癒えよ、命の綻び……結界の理、乱れなきよう──」
その瞬間、宵乃の腰の青い鈴がわずかに震え、清らかな音色が室内に広がった。
塔子の手から発せられた淡い光が三人の身体を包み込み、柔らかな温もりが満ちていく。日野介の肩の傷が静かに塞がれ、カナギの額の傷も消えていく。宵乃の全身からも重たかった疲労が溶けるように消えていく。
「……力が漲ってくるな」
カナギがゆっくりと目を開き、低く唸るように言った。
宵乃もまた、身体の奥から新たな力が湧き上がるのを感じた。
「儀式は終わりました。では──参りましょう」
塔子は静かに息を整えると、凛と背筋を伸ばした。幼さを残す顔に、迷いのない決意の色が宿る。そのまま軽やかに身を翻し、部屋を後にした。




