第五十三話 結界の守り手たち
内裏の中──。
塀を抜けた先、外の騒ぎは、まるで別世界の出来事のように遠ざかり、ここには静けさだけが満ちていた。池の水面には柔らかな陽光がきらめき、蓮の花が優美に咲いている。水鳥が水面を滑るように泳ぎ、小さなさざ波が池の縁を揺らしていた。池の周りには、赤、白、黄の花が色鮮やかに咲き乱れ、甘く淡い香りが漂っている。
小道は丹念に掃き清められ、白砂がさらさらと敷き詰められている。苔むした小さな岩々のあいだには、四角い小さな石灯篭が置かれ、火袋には星形の彫りが施されていた。色鮮やかな蝶がふわりと舞い上がり、花から花へと優雅に舞い踊る姿は、まるで夢の中に迷い込んだかのようだった。
「ここは一体……」
カナギの背から、宵乃と日野介はゆっくりと地面に降り立った。カナギは一つ息を吐くと、小さな白狐の姿へと戻った。
小道の先には、ひっそりと佇む庵が見えてきた。古びていながらも品格の漂う佇まい。周囲には低い竹垣が巡らされている。竹には露が玉のように宿り、光を弾いてきらめいていた。庵の軒下には風鈴がかかり、風もないのに微かに揺れて、涼やかな音を奏でていた。
庵へと続く小道には淡く光る筋が伸び、まるで道しるべのように、ゆらゆらと揺れながら三人を誘っていた。宵乃たちが一歩足を踏み出すと、それに応えるように庵の戸が静かに、ゆっくりと開いた。
現れたのは、白い髪の少女だった。宵乃より二、三歳ほど幼く見える。透き通るように白い肌と、淡雪をまとったような白い着物が、まるで光そのものを身に纏っているかのようだった。少女は静かに一礼し、凛とした所作で中へ入るよう促した。
庵の中は静寂に包まれていた。仄かな香が漂い、床には薄紅の花が活けられいる。窓から柔らかな光が差し込み、薄闇の室内に淡い陰影を作り出していた。
その寝台の上に、一人の女性が静かに横たわっていた。頬はこけ、指先は骨ばっている。だが、その痩せた身を支え起こす少女の手を借り、ゆっくりと身を起こすと、女性は力を振り絞って畳に手をつき、深々と頭を垂れた。
「妾は──千星聖子にございます。帝の妃であり、千星家の当主。そして、こちらは娘の塔子でございます」
その声は驚くほど澄み、やわらかく、凛とした気品に満ちていた。病に伏しているとは思えぬ静かな威厳があった。
あまりに格の違う存在に、宵乃と日野介は思わず息を呑み、反射的に畳に手をついて頭を下げた。狐に戻っていたカナギまでもが、ぴたりと身を縮め、小さく前足を揃えて頭を垂れる。
塔子と呼ばれた白い髪の少女も、母と同じように静かに一礼をする。彼女の透き通るような肌は、まるで淡雪のようだった。
「このような姿でお目にかかりますこと、無礼をお許しくださいませ。この庵には、誰も侵すことのできぬ結界を張っております。あの白き仮面の者でさえ、決して踏み入ることは叶いません」
宵乃は思わず息を呑み、目を見開いた。
千星聖子の瞳がそっと宵乃を見つめる。そこには深い慈しみと、どこか母に似た眼差しが宿っていた。
「宵乃殿──昨日、重き役目を負わせてしまいましたこと、妾の不徳の至りにございます。本来ならば、これは妾が果たすべき務め。しかしながら……この身は病に蝕まれ、力も尽き果て、結界守としての役目を果たすこと叶わず……」
彼女は細い指先で胸元を軽く押さえた。震える呼吸の中に、言葉を継ぐ。
「そのため、あなたのお力を借りるほかなかったのです。宵乃殿……あなたに深く感謝申し上げます」
宵乃は言葉に詰まった。胸の内に広がるのは、安堵とも困惑ともつかぬ感情だった。まだこの状況を把握できぬまま、口を開いた。
「……しかし、都の結界も内裏の結界も……破られてしまいました」
聖子は穏やかな微笑を浮かべ、静かに首を振った。
「いいえ。あれくらいでは、結界は、布に小さな裂け目が生じたようなもの。完全に破られたわけではありません。すぐに修復できる程度の浅いもの。あなたの御力がなければ、とっくに都の結界も内裏の結界も崩れておりました」
宵乃は恐縮し、頭を下げた。
「内裏の中から誰かが攫われたようだが、誰だかわかるか?」
静かな空気を破るように、カナギがやや無遠慮に口を挟んだ。小さな白狐へ戻ったとはいえ、場の格式を気にする様子もなく、ふてぶてしい声音だった。
狐が喋ったのがおかしいのか、塔子は微笑を浮かべた。幼さを残すその笑顔には、どこか狐の存在を面白がるような柔らかさが滲んでいる。
「連れ去られたのは、私の妹・貴子と……コモリ様です。本来は貴子と私が彼らの狙いであったはずでしたが、コモリ様が私に変装していたため攫われたのだと思います」
「……コモリ!?」
宵乃の声がわずかに震えた。驚きと戸惑いが胸を突く。共に旅をし命を預け合った仲間が、今は敵の手にある──。
「くそっ……あいつまで巻き込まれたか」
日野介も低く呻く。
それを聞き、塔子はそっと伏し目がちに言葉を継いだ。
「でも、まだ無事だと思います。それだけが今の救いです」
年若いながらも、その声には確かな芯の強さがあった。
「どうして無事だと分かる?」
カナギは遠慮なく問い返した。
代わって千星聖子が、穏やかな声で説明を引き継ぐ。
「"黒衣のもの"たちの狙いは、この国に張り巡らされた結界のすべてを壊し、混乱を招くこと。そして混沌の中で国を支配しようとしているのです。そのため、貴子と塔子を利用しようとしているのでしょう」
「つまり、利用価値があるうちは生かしておく……そういうことか」
カナギの言葉に、聖子と塔子はそろって静かに頷いた。そして、聖子が咳をしながら、話を続けた。
「千鳥家と千星家──二つの家は、六家の中でも要の二本の柱。結界を紡ぎ、癒しを司る家柄……しかし、古くからの定めにより、代々直接顔を合わせることは許されておりませぬ」
聖子はゆるやかに目を細め、静かな吐息を漏らした。
「ですが──今は非常時。力を合わせねばならぬ時なのです。"黒衣のもの"たちを逃してはなりませぬ」
「では、どうするのだ?」
「塔子が一緒に参ります。宵乃殿と力を合わせれば、あの牛車の結界も破ることができるでしょう」
庵の中に、微かな風が吹き込む。障子の隙間から差し込む光が、宵乃の胸元に揺れる青い鈴をそっと輝かせた。
宵乃は静かに背筋を正し、深く頭を下げた。
「千鳥家当主として、私は命を賭してお支えいたします」
宵乃の真摯な言葉に、千星聖子は柔らかな微笑みを浮かべた。
「これもまた、結界の綻びが巡り合わせたご縁──そのように受け止めております」
宵乃の背筋が震えた。新たな覚悟が静かに宿った。




