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第五十話 老忍の最期

 内裏の外──南西角。


 巨大な妖狐へと変じたカナギが、宵乃と日野介を背に乗せ、牛車の方へ一跳びで駆けた。その姿を、犬飼は黙したまま、じっと見送った。


 辺りは静かだ。ただ乾いた風だけが吹いている。通りには死んだように倒れている町人たち──何かの術によって深い眠りに落とされている。


 真昼の熱気が地面を覆い、焼けた土の匂いが漂う。老忍びの犬飼は、鋭い眼光で茂吉を見据えていた。茂吉の配下の忍びたちは、誰一人として動けない。犬飼の気配に圧され、踏み出す隙を失っていた。


 犬飼は笑みを浮かべながら言った。


「まだ続けるか?今のお前なら素手で十分だ」


 犬飼はそう言って、手にしていた小刀を地に捨てた。挑発でも侮りでもない。ただ、圧倒的な自信の表れだった。


 茂吉は黙したまま刀を握り直す。口の中で何やら呟いた。直後、犬飼の足元の地面が軋み、裂け目から黒い蛇がうねるように湧き出て犬飼を取り囲んだ。


 しかし──犬飼は微動だにしない。


 茂吉が合図をすると、黒い蛇たちは牙を剥いて一斉に飛びかかり、犬飼の体に噛みついた。だが──犬飼の肉体は鋼のように固い。黒い蛇たちは硬い岩にぶつかったかのように弾かれた。蛇たちは地面にぼとりぼとりと落ちると、煙のようになって消えた。


「……とぼけた術だな」


 犬飼が鼻で笑った。


「茂吉、お前も心得ているだろう?技量に明らかな差がある相手には、幻術は通じん」


 言葉と同時に、犬飼は自分の頭から白髪を一本抜き取る。その毛は手の中で淡く光るとするすると伸び始めた。針金のように変化したその毛は地を這い、茂吉の足元へと滑り込む。逃げる間を与えず、茂吉の全身をぐるぐると締め上げていった。


「……猿縛りの術。お前の親父から教わったものだ」


 犬飼の声に感傷の色はない。締め上げはさらに強まり、茂吉の顔はみるみるうちに紅潮していく。


「もう十分だろう、茂吉。俺には勝てん」


 犬飼は懐から煙管を取り出し、術を使って指先に小さく火を灯した。犬飼は煙を深く吸い込むと、ゆっくりと息を吐いた。


 そのときだった。


 四人の黒装束の忍びが、音もなく宙を舞い、犬飼の背後に迫る。犬飼の意識が茂吉に向いていると見て、背後からの一撃に賭けたのだ。


 だが──犬飼はまったく慌てない。


 犬飼が吐き出した煙が空中で形を変える。煙は空中で実体化し、四本の細い縄となって背後から迫る忍びたちの首に巻きついた。


 ──グッ!


 縄が一気に締まる。忍びたちは呻き声を上げることもなく地に崩れ落ちて、動かなくなった。


「茂吉、降伏しろ。命までは取らん」


 犬飼の術により、針金のような髪でがんじがらめに縛られた茂吉──身じろぎ一つできず、ただ鋭い眼で犬飼を睨みつけた。


「……どうして、お前は里を継がずに、得体の知れぬ奴らの下についた?」


 犬飼の言葉に怒りはない。ただ、旧友の子に対する無念があった。


 茂吉はうつむいたまま、何も答えない。


「ならば、一つ教えてくれ。“黒衣のもの”の狙いは何だ? お前がそれに加担したくなる理由は……何なのだ?」


 しかし、茂吉の沈黙は続いた。返ってくるのは、鋭くも濁った瞳だけ。


 犬飼は一つ息を吐き、頭を振った。


「……ふん。何も答えぬか。惜しいが、ここで死んでもらうしかないな──」


 そのときだった──。


 西の道から地響きが迫ってきた。


 ──ドドドッ……!


 馬の蹄の音が地を震わせる。犬飼は目を細めて振り返った。砂埃を巻き上げて、三十騎を超える騎馬が角を曲がってきた。熱気と汗の匂いが風に混じった。


 先頭には、髭をたくわえた大男──千空道継である。


「ようやく来たか」


 犬飼は唇の端をわずかに上げた。 


 騎馬兵たちは、犬飼と茂吉の周囲をぐるりと囲むようにして馬を止めた。三十騎ほどの兵たちは槍の穂先と弓の矢尻を静かに輪の中心に向けた。


 犬飼は、真正面にいる馬上の道継に向けて、話しかけた。


「お前か……。照雅はどうした?」


 道継はじっと犬飼を見るが、答えない。


「茂吉はこの通り捕えた。引き渡すと、伝えておけ」


 だが、返ってきたのは思いがけぬ言葉だった。


「……分からぬか、犬飼よ」


 道継は、馬上から不敵に笑いかけてきた。


「……ここで死ぬのは、お前の方だ、犬飼!」


 その言葉に、犬飼の眉がぴくりと動いた。道継の部下たちが一歩馬を進め、犬飼を包囲した。彼らの槍と弓は茂吉ではなく、犬飼に向けられていた。犬飼の肩がわずかに強張る。


「……何を言っている?」


 犬飼が静かに問い返す。


 道継は笑った。愉快で仕方がないとでも言いたげに。


「照雅は──さっき俺が殺した」


 その言葉は、乾いた風の中にあまりにも軽く放たれた。


「……何だと?」


 犬飼の表情がこわばる。額に一本、深い皺が刻まれる。


「馬鹿な……どういうことだ……!」


 言葉を押し出すように呟いたその声には、かすかな動揺が滲んでいた。


 道継は馬上で堂々と胸を張った。


「言った通りだ。阿呆の照雅は、俺が殺した。これから千空家の主はこの俺だ」


 犬飼は、ようやく全てを察したように、目を細め、ゆっくりと吐息を漏らす。


「なるほどな……どうやら俺の認識が甘かったようだ」


 道継はにやりと笑った。


「照雅にならすぐ会えるさ。あの世でな。せいぜい、互いに愚痴でもこぼしておけ」


 道継が大槍を構え、馬上から振りかぶる。その刃先が鋭く陽を弾いた次の瞬間、唸るような風音とともに、犬飼めがけて突き出された。犬飼はすかさず身をひねり、槍の直撃をかわす。


 だが、次の瞬間──犬飼を囲んでいた兵たちから矢が放たれた。


 空気を切り裂く音が連なり、黒い矢の雨が犬飼を包囲した。


 犬飼は身を翻し、二本、三本の矢を煙の術で弾くも、すべては防ぎきれない。一矢が肩を貫き、もう一矢が脚を射抜いた。さらに、背に一本、脇腹に一本──犬飼の体が地に沈む。膝をついた犬飼は、それでも立ち上がろうとする。血が土に落ち、煙管がぽとりと転がった。


 馬上の道継が、冷たい目でその様子を見下ろす。


「ここまでだな、犬飼」


 その言葉が終わるか終わらぬうちに、四方から突き出された槍が、一斉に犬飼の胸と腹を貫いた。硬い音を立てて胴を穿ち、老忍の身体がわずかに震えた。やがて、膝から崩れ落ち、犬飼は地に伏した。


 犬飼の術で縛られたままの茂吉は言った。


「……助かった、道継。これを解いてくれ」


 道継は頷くと、部下に命令した。


「解いてやれ」


 道継の部下の一人が茂吉の身体を拘束していた“髪”──に手を伸ばし小刀でそれを切ろうとした。しかし、髪は切れぬどころか、まるで生き物のように締め付けを強めた。茂吉の顔が苦悶に歪む。


「なっ……が、あ……!」


 髪は茂吉の胸を絞り、さらに伸びて首へと這い上がっていく。締め付けの力が骨を軋ませる。茂吉は身をよじるが逃れる術はない。


「く……クソが……!」


 呻くような声と共に、茂吉の体が硬直し、そして──首がうなだれた。


 死んだ犬飼の術は、死してなお、その力を増していたのだ。老忍の意志が、その髪に宿っていたかのように。


 犬飼の死体の傍らに、並ぶようにして茂吉の体も倒れた。


「ふっ。忍び同士、道連れか……」


 道継の声には、哀悼の色など微塵もなかった。むしろ軽蔑すら滲んだ笑みを浮かべ、馬上で肩を揺らす。道継は冷たい声で、部下に命令した。


「さあ……次に動くぞ。牛車を追う」



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