第四十二話 信勝の眼差し、そして脱出
──内裏、南御門。
南御門と呼ばれる、内裏の南に位置する正門。その前には、張りつめた緊張感が漂っていた。
正門の左側には、京極宗高を筆頭に、京極家の重臣たちが厳かに並ぶ。その対面には、立烏帽子に直垂姿の公家たちが列を成していた。いずれも顔色が白く、線の細い者ばかりである。
京極宗高は、ずんぐりとした体格に団子鼻、口髭をたくわえている。落ち着きのない様子で何度も髭に手をやっていた。
正門へ続く道の両側には、都の人々がぎっしりと集まっていた。京極家の兵士たちが集まった人々の動きに目を光らせている。
京極家の重臣たちの末席には、千空照雅と義弟・道継の姿があった。
照雅は、昨夜から一睡もしていない。道継も同じだ。しかし、これからが本番──。千代田信勝が帝に謁見する、その重要な日が始まろうとしていた。
信勝については、照雅も噂でしか知らない。近年、勢いに乗る若き大名──その名声は高いが、実際の姿を見たことはない。しかし、今この場での照雅に、彼を見定める余裕などなかった。
都の東に陣取る千代田信勝の六万の兵。千代田が一声命じれば、都は一瞬にして戦いの場となるであろう。いや、戦いにもならない。兵力差が圧倒的だ。都は一瞬で掌握される。もし、謁見が失敗に終われば──。照雅の脳裏に、最悪の事態がよぎる。
だが、それだけではない。
“黒衣のもの”の存在──。都の結界を簡単に切り裂いたという仮面の男。結界を操り、結界そのものを断つ力を持つ者たち。そして、昨夜、照雅が遭遇した、忍び・茂吉と紫の刀を持つ剣士。この二人も只者ではなかった。彼らがこの場に現れる可能性は低い。だが、間違いなく、都のどこかに潜んでいるのだ。
「もし、“黒衣のもの”が同行していた場合……どうする?」
照雅は心の中で自問し、自然と手に力がこもった。不確定要素が多すぎる──。しかし、対処するだけの十分な備えはない。
──そして、ついに、その姿が見えた。
千代田信勝!
先頭に立ち、悠然と歩みを進める小柄な男。その傍らには、巨躯の猛将・酒井忠長。
「小さいな」
道継が、照雅にだけ聞こえる声で呟く。
たしかに、信勝は小柄で華奢に見えた。六万の兵を率いる将には到底見えぬ。しかし、──その姿勢には隙がない。護衛の兵、約五十名が一糸乱れぬ隊列を組んで進んでくる。そのさまは威風堂々たるもの。沿道の民衆から歓声があがるのも無理はなかった。
宗高をはじめ、京極家の重臣、公家たちは最上級の敬意を表し、深々と頭を下げた。
信勝は膝をつき、礼を返した。その所作は洗練され、無駄がない。鋭い眼差しに、武将としての強さと誇りが垣間見える。驕ることはなく、むしろ謙虚な姿勢が印象的だった。
「……あれが、千代田信勝……」
照雅は、目を細めてその姿を見つめた。
信勝、酒井忠長、そしてもう一人の側近の男が前へと進む。内裏に入れるのは、事前の取り決め通り三名のみ。武器類の持ち込みも禁じられていた。
信勝は、何の抵抗もなく淡々と腰の刀を外し、それを照雅に預けた。信勝の刀を手に取ったとき、一瞬、信勝と目が合った。それは、鋭く、真っ直ぐな眼差し。
照雅は、ぞくりとした震えが背筋を駆け上がるのを感じた。
言葉は交わさずとも、伝わる。
──この男には、不思議な魅力がある。この国の運命を揺るがす者か──
宗高が先導し、信勝たちは静かに門をくぐり、内裏の中へと入っていった。門の向こうに消えていく背中を、照雅は得体の知れぬ胸騒ぎを抱えながら見送っていた。
「良い男でしたね」
道継が、どこか拍子抜けしたように言う。
「……ああ」
照雅は短く応じた。
”黒衣のもの”の影は、どこにもなかった。それは安堵すべきことのはずだ。しかし、なぜか照雅の胸騒ぎが消えることはなかった。
門の隙間から吹いた風が、照雅の袖をかすかに揺らした。
◆
──信蓮寺、物置小屋の中。
「どうやって、抜け出すんだ?」
白狐のカナギが、宵乃に尋ねた。
──そのとき、扉の向こうから錠の外れる音が響いた。ぎぃ、と軋む音。カナギが牙を剥いて身構えた。
しかし、入ってきたのは、刀を持った日野介だった。
「……日野介!」
宵乃が思わず声をあげる。
「宵乃、無事だったか」
そう言って、日野介は小屋に入る。そして、足元の白狐にふと気付いた。
「坊や、久しぶりだな」
「この狐は?……まさか?」
「そう、カナギよ。この姿になって喋れるようになったんだ」
「あの、無口な爺さんが!?」
日野介は驚く。無理もない。日野介は人間の老人であったときのカナギしか知らない。一度もその声を聞いたことがなかったのだ。
「ふん。これで旅の最初の三人に戻ったな。それより、坊や、眠っていなかったのか?」
カナギが尋ねると、日野介は刀の鍔を撫でてから言った。
「猿翁からもらった鍔のおかげで、眠りの術は効かなかった。あの場では、眠ったふりをしていただけだ」
「日野介……!きっと来てくれると思ってた」
宵乃の声に、日野介はわずかに目を伏せる。肩の力が少しだけ抜けたようにも見えた。
「ふん、早く逃げるぞ」
カナギはぴょんと跳んで、宵乃の着物の中に入った。
物置小屋を出ると、胸から血を流した兵士が横たわっていた。日野介の刀の刃跡が胸に一直線に走っている。
「こっちだ、門へ行くぞ」
日野介は迷わず左へ折れ、すばやく足を踏み出した。
だが、宵乃はその場に立ち止まった。
「待って」
日野介が怪訝な顔で振り返る。
「……何を言ってる。門番はまだ眠っている。今なら門を抜けられる」
宵乃は、ゆっくりと反対方向を指差した。
「いいえ、そっちじゃないわ。……本堂に行くのよ」
「「何?」」
日野介とカナギの声が重なる。
「正気か?相手はあの仮面の男だぞ。それにまだ”黒衣のもの”たちはたくさん残っている」
日野介の声が低く唸る。
「謁見の間、”黒衣のもの”たちは動くはずよ。彼らの動きを監視しないと」
カナギが宵乃の胸元で小さく鼻を鳴らし、「無謀な……」と呟いた。
「……ここまで来たのよ。逃げるわけにはいかない」
「そうか……」
日野介は宵乃に従った。
そして、宵乃たちは、右へ折れた。蔵が二つ並ぶ先、本堂の側面が見えた。正面の大扉はぴたりと閉ざされ、前庭にはまだ兵士たちが眠ったままだ。本堂の全ての扉が堅く閉じられ、見張りの姿もない。
「静かすぎる……」
日野介が周囲に目を配る。
しかし……、本堂の屋根の上から冷たい声が降ってきた。
「大人しくしておれば、命までは取らぬと言ったはずだ」
屋根の上に、茂吉の姿。目元を鋭く光らせ、宵乃たちを見下ろしている。
「くっ……」
日野介が身構え、刀に力を込めた。
すると、音も立てずに左右から二人ずつ、背後にも三人の忍びが現れ、彼らを囲んだ。
「囲まれたな……」
さらに、本堂の影から、二人の異国の男がゆらりと現れた。首に十字架を下げ、黒い法衣を纏い、手には火縄銃を構えていた。
「手を挙げて、膝をつけ!」
茂吉の声が鋭く響く。
日野介が歯を食いしばり、刀を構えたまま、宵乃の前に立った。
「くそ……」
「早くしろ!」
さらに茂吉の声が鋭く飛ぶ。
一瞬の静寂。張り詰めた空気が裂ける寸前の、凍るような緊張が場を支配していた。




