第四十一話 捕縛、謁見の間
信蓮寺の境内──。
京極家の兵と千代田家の兵たちは、まだ倒れたまま、誰一人として目を覚まさない。
宵乃は、黒装束の忍びたちに完全に包囲されていた。
息を潜めるような静寂。張りつめた気配が、宵乃の肌をじわりと刺した。
「……私をどうするつもり?」
宵乃が声を放つと、前方に立つ忍びたちの中から、一人の男がゆっくりと一歩踏み出した。
「宵乃……まさか自分から現れるとはな」
よく知っている低い声──茂吉だった。
「茂吉、やっぱりあなたも”黒衣のもの”の一味なのね……」
「ふん。何をしに来た?」
宵乃をじっと見据えるその瞳には、冷ややかさとわずかな陰りが混じっていた。
「話が通じる相手かどうか試しただけよ。でも。無駄だったわ」
「おとなしくしていれば、命までは奪わん」
「ずいぶんね。あなたたちは“平和を目指す団体”じゃなかった?」
皮肉を含んだ問いかけにも、茂吉は無言。顔色一つ変えずにただ佇んでいた。
宵乃は軽く身を引き、門の方へ駆け出そうとした──
が、それを読んでいたかのように、左右から忍びが飛び出し、刃のような動きで進路を塞いだ。
「やめておけ。抵抗は無駄だ」
茂吉が低く告げる。
「……わかったわ」
「懸命な判断だ」
そのとき、襟元に隠れた白狐──カナギが囁いた。
「茂吉か……。因縁だな。今ここで俺が変身すりゃ、こいつら全員殺せるぞ」
(……いえ。今は暴れてほしくない)
宵乃はヒソヒソ声で返事をする。
「なら、このまま捕まるのか?」
(カナギ。今は隠れていて……)
カナギは鼻を鳴らし、するりと着物の内へと身を引いた。
「すまぬが、縄をかけさせてもらう」
茂吉が言うと、後ろに回った一人の忍びが、躊躇なく宵乃の両腕を後ろ手に縛った。ざらりとした縄が肌に食い込み、次いで、目元に手拭いが巻かれた。
視界が閉ざされる。
「私をどうするの?」
「……こちらへ」
腕を引かれた。導かれるまま、砂利を踏む音だけが境内に響く。
やがて足が止まり、鉄の錠が外される音、木の軋む音──。
仄暗く、ほこりのにおい。
「面会が無事に終われば、解放してやる。それまで、静かにしていろ」
茂吉はそれだけ告げると、戸を重々しく閉じた。
すぐに、外から錠のかかる音が響いた。
──しん、と静寂。
「……まったく、女の子を縛ってこんなところに押し込めるとは。どこが“平和”なんだか」
隠れていた白狐がぬっと顔を出し、ぴょんと床に飛び降りた。カナギは尻尾をふわりと揺らし、宵乃の背後へまわると、縄にかぷりと噛みついた。
ぎしり──縄が切れる音。
自由になった手で手拭いを取り、宵乃はようやく視界を取り戻す。
狭くて暗い物置のような部屋。仏像や掛け軸、古文書が無造作に置かれていた。
白狐のカナギが尻尾を揺らし、部屋の中を駆け回る。仏像の裏や棚の隙間まで覗き込み、どこか抜けられそうな場所がないか探しているようだ。でもすぐに諦めて戻ってきた。
「どこにも出られそうなところはないな」
カナギが呟く。
「……カナギ。あなた、自分の力で元の姿に戻れるの?」
宵乃が尋ねた。
──元々、カナギは人間を百人以上喰い殺した、伝説級の“妖狐”であった。その凶名は国中に知れ渡理、ついには討伐隊が組まれ、捕えられた。処刑の寸前、偶然に通りかかった宵乃が見つけたのだ。
宵乃は命を助ける代わりに、カナギの妖力を封じる契約を交わした。以後、カナギは封印の代償として、人間の老人の姿となって宵乃と共にあった。
だが──。
茂吉の放った毒の吹き矢により、その器である人間の肉体が破壊されてしまったのだ。それにより、宵乃がかけた封印は一度、完全に解かれたことになる。狸の夫婦たちの助けがあり、カナギの命を繋ぐために小狐の姿へと器を変えたのだ。
カナギは尾をふわりと揺らし、低く笑うように呟いた。
「……ああ、前ほどでかくはなれねぇが、この建物くらいなら、ひと暴れで崩せるぞ」
「だめよ。それじゃ目立ちすぎるわ」
「茂吉にも借りを返さねえとな」
「それは、今じゃないわ」
「じゃあどうするんだ?やっぱり無策だったんじゃねぇか」
カナギは呆れたように尻尾を振って、あくびをした。
「無策じゃない。今こそ、彼らが最も油断しているときよ」
「ん?」
カナギがわずかに首を傾げた。
宵乃は声を潜める。
「今、“黒衣のもの”たちの目は、信勝と帝の謁見に向いている。その裏で、必ず何かが起きる。奴らは、私がこの状況で何もできないと思っている……」
カナギは目を細めた。
「ってことは……抜け出す気か?」
宵乃は静かに、しかし力強く頷いた。
「ええ。最初からそのつもりよ」
◆
内裏──大極殿。
黒の打掛を纏ったコモリは、先を歩く貴子の後ろに従い、歩いていた。
「私と同じ歩幅、同じ仕草で」
貴子の指示に、コモリは貴子の背中を注意深く観察する。しかし、どうしても動きにぎこちなさが残る。忍びとして育った体には、この仰々しい所作が馴染まないのだ。
忍びにとって、変装は、潜入や情報収集のための基本の術。これまでコモリは、芸者、町娘、三味線の師匠……さまざまな姿を演じてきた。だが、まさか帝の娘に成りすますことになるとは思いもしなかった。そして、これまでのどの変装よりも、これが最も難しいと感じていた。
「顔」と、貴子が小声で注意を飛ばす。コモリは反射的に口元を引き上げ、柔らかな笑みを作った。
──皇女たるもの、人前で微笑みを絶やさぬもの。
(天井裏に潜んでいた方が、よほど楽だった……)
これから、大極殿の大広間で、帝と千代田信勝との謁見が執り行われる。コモリは、貴子の依頼を受け、貴子の姉・塔子としてその場に同席することになっている。
「……やっぱりバレないかな?」
歩きながら、小声で問いかけるコモリ。
「姉は、病床に伏せていることになっていて、長いこと公の場には出ていない。母と私以外、誰にも顔を知られていない。だから、コモリが変な動きをしなければ問題は起きない。バレたら死罪だが……」
貴子は振り返って、意味ありげな笑みを見せた。
(冗談には聞こえない……)
思わず足が止まりそうになるのを、ぐっとこらえて歩を進めた。
長い廊下を歩き続け、やがて二人は大極殿の大広間へと足を踏み入れた。
畳が一面に敷かれた壮麗な空間。広さは優に数百人を収容できるほど。壁際には公家たちが静かに座し、その衣装はどれも絢爛。空気には重々しい静寂と、どこか張り詰めた気配が漂っていた。
(……広い)
壇上の玉座は空。帝も千代田信勝もまだ現れていない。
貴子は、公家たちにゆるやかに一礼をした。コモリも、その所作をなぞり、貴子の隣の席へと腰を下ろした。
公家たちの視線が、塔子に扮した自分に向けられているのを感じ、コモリは思わず背筋を伸ばした。手にじっと汗が滲む。これまでいくつもの命の危険を伴う任務を乗り越えてきた。だが、そのときの緊張よりも、今の方が強い。
「塔子が表舞台に出るのは、七、八年ぶり。噂話が好きな公家たちの絶好の標的になる」
あらかじめ、貴子に言われていたが、これほどにまで、人に見られていることは初めてであった。天井裏、森の闇、土の中、水底──どこにでも潜む術を叩き込まれてきた。忍びは人々の視線の外にいるのが常。
(早く終わらないか……)
そう思っていたとき、入口の襖が引かれた。
入ってきたのは、三人の男。中央に立つ一人は、ひときわ小柄な体躯。年の頃はまだ若く、肌は白い。──それでも、鋭い眼差しが場の空気を一気に引き締めた。
(千代田信勝──)
コモリはごくりと唾を飲み込んだ。




