第三十八話 変装、迫る謁見のとき
──静かな畳の一室。
コモリは夢を見ていた。
夢の中、コモリは都の街道を歩いていた。ふと立ち寄った蕎麦屋。帳場に立つ女将に注文を伝え、顔を上げると──女将の顔は、不気味な仮面だった。吸い込まれそうな漆黒の着物。心臓が跳ねる。
コモリは戸を蹴破るように外へ出た。道を歩く剣士の背中が見える。日野介だ!「日野介!」と声をかけた。その剣士はゆっくりと振り返る。顔には白い仮面。裾の長い黒装束。
来た道を慌てて戻るが、すれ違う者すべてが、黒い法衣を着て、顔には白い仮面をつけている。皆からジロジロと見られる。
私だけが違う。
私だけが、取り残されている──。
「……っ!」
跳ね起きる。息が詰まり、全身が汗で濡れていた。
柔らかな布団。織りの細かい畳。上品な障子の隙間から、朝の光が差していた。
(どこだ……ここは──)
思い出す。昨夜、貴子の部屋に招かれ、そのまま……。
そのとき、背後から落ち着いた声がした。
「起きましたか」
驚いて身を翻そうとした瞬間、足がもつれ、畳に倒れ込む。反射的に手裏剣を取ろうとするも──ない。懐に仕込んでいたはずのそれは、消えていた。
目の前に立っていたのは、黒の打掛をまとった若い女性。
両脇には、控えるように立つ二人の侍女。
「……貴子様」
「ずいぶん、うなされていましたね。コモリ」
「……私は、寝ていたのですね。申し訳ございません」
忍びにあるまじき失態──任務の最中に眠るなど、あってはならぬことだ。
「私の術で眠らせたのです。無理を重ねていたようでした」
「申し訳ありません……何も、できず……」
「いいえ。これからが本番です」
コモリはその時、自分の装いに気づく。身体にまとうのは、黒の打掛。貴子と同じものだった。
「それは、儀式の際の正装です。あなたが眠っている間に、着替えさせました」
部屋の隅に、コモリが身に着けていた忍び装束が丁寧に畳まれており、その上に白い布が敷かれて、手裏剣、小刀が丁寧に置かれていた。
「つい先ほど、千代田が都に入りました。まもなく、帝との謁見が始まります」
貴子の声は淡々としていた。
「妾は帝の子として、その場に臨みます。コモリ、あなたにも同行してもらいたい」
戸惑うコモリに、貴子は微かに笑みを浮かべた。
「すでに化粧も施してあります」
それを合図に、侍女のひとりが手鏡を静かに差し出す。
映し出されたのは、白粉を引き、紅をさした貴族風の女の顔。整えられた眉、伏し目がちに塗られた紅──どれも、自分のものとは思えない。
「その姿で、私の姉・塔子として振る舞っていただきます」
そう言って、貴子は静かに面会の段取りを語り始めた。
◆
──宵乃は、内裏の南東に位置する小料理屋の離れにいた。ひっそりとした佇まいのその店は、千空家が密かに所有している隠れ家だった。
宵乃と千空照雅、二人とも深刻な表情で向き合っていた。
照雅はまだ肩で息をしている。急いで持ち場を離れてきたのだ。
「白い仮面の男によって──結界が切り裂かれました」
宵乃が静かに告げた。
「……なんと。都の結界は、この国で最も強固な結界の一つ、まさか……」
照雅の声が低くなる。
「まだ、結界は裂かれたまま……」
その袂から、ひょこりと白狐が顔を出す。
照雅はわずかに眉をひそめた。構わず、宵乃は話を続ける。
「そこで、千影神社の狸の夫婦に会いました。あの場の後始末は自分たちが引き受けると。そして、ヨリ様には直ちに報告を入れるとのこと。この子──妖狐カナギは、その折に託されたものです」
「……そうか。都全体の結界を見ているのは、千星家の長女のはず。綻びに、彼女も気づいているに違いない」
「その方と、会うことは叶わぬのですか」
「残念ながら、顔も名も知らぬ。まして居所など──六家の間では、それが常だ」
照雅は口を引き結び、話を続けた。
「六家の掟がある。互いに干渉せず、ただ、それぞれの責を全うする──数百年、そうやって結界を守ってきた。今も、それは変わらぬ」
宵乃が頷くと、照雅は静かに目を伏せた。
「さて、千代田の一行は予定通り南の正門から入城し、現在は、内裏南方の信蓮寺に滞在している。そこに部下二百を留め、内裏には三名のみが入る段取りだ」
「三名──。千代田と、横にいた大柄な武将、あともうひとりは?」
「──あれは、酒井忠長。信勝の幼き頃より仕えてきた、忠義の臣であり武辺者でもある。そしてもう一人は、通常であれば外交役を務める家臣が選ばれる。内裏の中に“黒衣のもの”が入るなど……ありえぬことだ」
照雅の口調には、確信とともに一抹の疑念がにじんでいた。
それを受け、宵乃は静かに眉をひそめた。
「……けれど、絶対にありえないとも言い切れません」
その言葉とともに、宵乃は拳をぎゅっと握り締めた。
目を伏せ、一息──そして、顔を上げる。
「私、あの白き仮面の男に、会いに参ります」
「……なに!?」
照雅は目を見開いた。
「幾百年、私たちが守り継いできた結界を、踏みにじったのです。このまま見過ごすことなど、できませぬ」
照雅はしばし言葉を失った。
「……だが、危険すぎる」
「ご安心を。都の内であれば、さすがに奴らも命を奪うまでは致しますまい」
「だが……宵乃殿は、我ら六家にとっても極めて大切な存在だ」
照雅の声には、強い思いがにじんでいたが──
「私は、千鳥家当主として、そう決めました」
宵乃の声は静かにして揺るぎなく、その目は真っ直ぐに照雅を見ていた。
「互いの家には干渉せぬ。それが六家の掟でしょう?」
照雅は唇を噛んだ。そして、言葉を絞り出した。
「ならば、私も同行する」
宵乃は首を横に振った。
「なりませぬ。あなたは京極家の家臣──それこそ、戦の口実を与えることになります。それに、私たちの繋がりは敵に明かさない方が良いでしょう。ゆえに、私一人で参ります」
そのとき──、外から駆け足の音がして、戸が叩かれた。
「照雅様!千代田が、出かける準備をしているとの報せです!」
戸の向こうから、やや息を切らした声が届いた。




