第三十六話 地下牢の男、そして時は来た!
──朝日が東の空を染める頃。
照雅と道継は、ひんやりとした石造りの階段を無言で下りていた。
石段は地中深くに続き、やがて土壁の回廊に切り替わる。
「本当に、あの男に頼るのですか」
道継が低く問う。
「他に手がない」
照雅は短く答え、重い木と鉄の扉に鍵を差し込む。
錠が外れ、軋む音とともに扉が開かれた。
──京極家、地下牢。
湿気と土の匂いが鼻をつく。
見張りの兵に金貨を一枚渡し、照雅は静かに言った。
「ここに我らが来たこと、口外するな」
兵は緊張の面持ちで深く頷いた。
並ぶ牢の中、格子越しに痩せこけた囚人たちが二人をじろじろと見てくるが、照雅も道継もそれらには目もくれず、無言で最奥の扉へと進んでいく。
突き当たりの扉は、分厚い樫材に鉄の帯を打った堅牢な造り。
照雅が腰の鍵束から特別な一本を選び、静かに錠を開ける。
──その先、空気が一変する。
畳が敷かれ、かすかに香が薫り、灯籠の火がやわらかく空間を照らしていた。
地下とは思えぬほど清潔で、整えられた空間。
控えていた若い侍女が二人の姿に目を見開く。
「これで何も見なかったことにしておけ」
照雅は銀貨を一枚渡し、手短に言った。
侍女は深く頭を下げて、音もなく廊下から姿を消した。
最奥の牢は一室のみ。
鉄格子の向こうには畳が敷かれ、本が積み上げられている。壁には書棚が並び、まるで牢ではなく、文人の書斎のようだった。
その中央、身なりの整った大柄な男が胡坐をかいて書を読んでいた。白髪まじりの髪を無造作に束ね、顔には深い皺。その風貌には、どこか異様な迫力と気高さが混じっている。
男は顔を上げ、ゆっくりと言った。
「……千空の坊やか。久方ぶりだな」
その声音に驚きはない。まるで来訪を予期していたかのようだ。
「何の用だ?だいぶとお急ぎみたいだが……」
男はゆっくりと顔を上げ、皮肉な笑みを浮かべた。
照雅はそれには答えず、格子の鍵を開け、中へと入る。道継も続く。
「──犬飼殿、ご無沙汰だな。単刀直入に言う。人を探してほしい」
「ふむ。頼む側の口ぶりじゃねえな」
飄々とした調子で返しながら、犬飼は本を閉じて立ち上が第十。
「地下に閉じ込めて頼みごととは、さすがは千空家の倅。わしを頼るとは、いよいよ切羽詰まってるんじゃな」
「望む書も食も揃えてあるはずだ」
「それは確かに。だが“自由”とは言い難い」
犬飼は値踏みするように、照雅と道継の顔をじろりと見る。
「都の有力者たちが皆、お前を恨んでいるのは事実。匿っているとも言える」
「ふん。連中が勝手にそう思ってるだけだ。都騒乱の件も、わしじゃなけりゃもっと死人が出ていたわ」
「そうかもしれないな」
照雅は静かに返す。
「で?探して欲しいのは誰だ。“黒衣のもの”か? わしのいない間に、妙な連中がのさばっておるようだな」
「どうしてその名を──!」
道継が身を乗り出す。
「たわけ!わしを誰だと思っとる。元とは言え、荒賀忍びの長ぞ」
犬飼の一喝に、道継は押し黙る。
「なら、話が早い」
照雅は、つとめて冷静に、都で起こっている状況を手短に語った。
千代田信勝の謁見、黒衣のものの暗躍、結界の乱れ、帝の身に迫る影……・
犬飼は、しばし黙ったのち、小さく吐息をもらした。
「……ふむ、わしが聞いていた以上に厄介な連中のようだな……。で、探してほしいのは?」
「茂吉と、それに連なる剣士。動きと居所を知りたい」
「飛賀の……そうか、猿の倅か。猿翁の苦悩しておる顔が目に浮かぶわ」
「協力してもらえるな」
「さあ、どうだかな。考えどころじゃな……」
「あなたしかいない」
照雅は頭を下げる。
続けて道継も、渋々ながら頭を垂れた。
犬飼はため息をつき、手を振って笑った。
「ハハハ。なるほど。照雅は結界の守護で忙しい上、京極家の勤めもある。なかなかその二人まで手が回らんということじゃな。一人でも。有能な部下がいれば良いんじゃが」
そう言って、道継を見る。
「な、何を、言わせておけば!」
道継は立ちあがろうとしたが、照雅が抑える。
「ふん。気まで短いか……」
犬飼は吐き捨てるように言った後、ゆっくりと頷いた。
「わかった。ただし、やり方は任せてもらう」
「恩に着る」
照雅は頭を下げる。
道継が憮然とした顔をしているのを見て、犬飼はニヤリと笑う。
「急いでるんだろう?とっとと行け」
二人が立ち上がり、帰ろうとするそのとき──
気づけば犬飼は、照雅の巾着袋を手に取り、中の金貨を指先で器用に弾いていた。
「い、いつの間に!」
「まあ、今回の報酬はこれでいい。酒代くらいにはなる」
犬飼は笑って、鍵束だけをひょいと投げ返した。
「大事なものだろ。ほらよ」
ふと、道継が違和感に気づく。
「……俺の脇差がない」
視線を向ければ、犬飼がそれを腰に提げていた。
「借りておくよ。少々な」
道継が怒気を含んで睨むが、犬飼は平然としている。
「お前が無能だから、照雅の負担が大きくなるのだ。せいぜい精進するんだな」
くっ。道継が拳を握りしめる。
「……あの、じじい……!」
くつくつと笑いながら、犬飼は出口を顎でさした。
「俺は……まあ、少し準備してから行くとしよう」
◆
──千空家の武家屋敷。
いつもとは違う朝の光景。今日、いよいよ千代田信勝が都に入る。
兵士や侍女たちが慌ただしく行き交い、都の守備に向けた支度が整えられていく。
照雅は、道継に指揮を任せ、ひとり足早に奥の土蔵へと向かっていた。
──土蔵の一室。
中には、すでに宵乃と日野介が静かに待っていた。
照雅が入ると、二人は軽く頭を下げる。
「まさか、宵乃殿にお越しいただけるとは」
「……私自身の目で、確かめたくて」
宵乃の声には、揺るぎない意志があった。
「では……始めよう」
三人は輪を囲むように座して、照雅は地図を広げた。
千代田信勝の都入りまで、残された時間はわずか一刻。
自然と空気が、張り詰める。
守るべきは──都全体の結界、そして内裏の結界。
三人は短く意見を交わし合い、それぞれが自分の役割を確認する。
無駄な言葉はなく、しかしそのやり取りには、お互いの覚悟が滲んでいた。
やがて照雅が、すべてをまとめるように小さく頷き、手を差し出す。
宵乃と日野介がそれに応じて手を重ねた。
「それぞれ、頼む」
照雅の言葉に、二人は深く頷いた。
──その頃、千代田信勝が率いる二百の騎馬隊が、すでに都へと歩を進めていた。
次話:ついに、千代田信勝と”黒衣のもの”が都に入る!




