第三十五話 皇女・貴子の宿命
──内裏の西棟、小部屋。
朝の気配が近づいていたが、部屋の中にはまだ淡い闇が残っていた。
障子の向こうからは、風の音さえ聞こえぬ静寂。
正座する忍びのコモリと、その前に座る第二皇女・貴子。
コモリは偵察の報告を終え、静かに頭を下げていた。
「……ご苦労であったな、コモリ」
貴子の声は低く、しかし確かな温かみを帯びていた。
「南西の角にいたのは、忍び・茂吉と紫の剣士・藤四郎であったか」
「藤四郎……?」
初めて聞く名に、コモリはわずかに眉をひそめた。その反応を見て、貴子は軽くうなずいた。
「知らぬか。元は都にいた男だ。内裏を守る警衛兵だったが、“黒衣のもの”に引き込まれ、堕ちた」
「なんと……。そやつが結界に手を加えたのでしょうか?」
貴子は静かに首を振る。
「茂吉も藤四郎も結界を乱す元凶ではない。そのような力は持たぬ。この内裏の結界は、並の力で乱されるようなものではないのだ」
貴子の瞳が、一層鋭さを帯びた。
「おそらく……罠であろうな」
コモリは静かに頷いた。その可能性は、彼女自身も薄々感じていた。貴子は目を細め、慎重に言葉を続けた。
「他の者が結界を乱し、”内裏の結界を守る者”を誘き寄せようとした。そこに茂吉と藤四郎が待ち構えていたのだろう」
「”内裏の結界を守る者”?……それは宵乃でしょうか?」
コモリが小さく息を呑むのを、貴子は静かな瞳で見つめた。
「……宵乃殿だけではない」
貴子は微かに身を乗り出すようにして、コモリの目をじっと覗き込んだ。
「コモリ、お主を信じよう。お主も六家の一員だからな」
貴子は静かに姿勢を正した。コモリはゾクリとした。その落ち着きと威厳は、年下とは到底思えぬほどだった。
「だが、これから話すことは六家の中でも、ごく限られた者しか知らぬ。まさに秘中の秘だ」
コモリは深く頷き、真剣な眼差しで貴子を見つめ返す。
「宵乃殿だけでなく、妾の姉・千星塔子、そして妾の母である中宮・聖子もまた、結界を守る者だ。内裏の結界は母上が、都全体の結界は姉・塔子が、結界守をしている」
驚きに目を見開いたコモリが、思わず声を漏らした。
「中宮様が……!?」
貴子は静かにうなずき、わずかに目を伏せた。
「うむ。母上は千星家の血を引き、この国で最も強く結界を操る力を持っている。だが、今は病に臥している」
その言葉に、コモリの胸に不安が広がった。
「それで、宵乃が……」
「そう。本来なら母上と塔子だけで守りきれるはずのものを……。母上が倒れたことで、宵乃殿にまで負担がかかってしまった」
「宵乃はそのことを?」
「知らぬ。知ることは、危険に近づくことでもあるからな」
「では、貴子様も結界の守護を?」
「いや、妾はその二人の手助けをしているに過ぎぬ。結界を直す力は二人に比べれば微々たるものだ」
貴子は穏やかに微笑みながら続けた。
「妾とお主は、その三人を守るための駒に過ぎぬのだ」
ほのかに射し込む夜明け前の淡い光の中で、障子の紙目がぼんやりと浮かび上がっていた。
やがて貴子が静かに口を開く。
「──そして、結界を乱した者は、おそらく内裏の中にいる」
その言葉にコモリの表情が強張った。
「内裏の中に……ですか?」
「……ええ、それ以外に考えられません。ただ、相手も用心深く立ち回っている……」
貴子の声の奥には、悔しさと警戒が静かに揺れていた。
「そんな……内裏の中にまで“黒衣のもの”が手を伸ばしているとは……」
「そうであろう。そうでなければ、アワイが殺されることもなかった」
コモリは背筋が冷え、拳を固く握りしめた。
「明日の謁見は中止にならないのでしょうか。危険すぎます」
貴子はわずかにため息をついた。
「内裏の中にも、千代田との面会を望む者がいるのだ。たとえ“黒衣のもの”に操られていようと……。今、この国で最も勢いのある武将が千代田だ。この時代、武の力には逆らえぬ」
「帝ご自身も謁見を望まれているのでしょうか?」
貴子は小さく首を振った。
「妾も知らぬ。今は、会うことさえ許されぬのだ」
貴子はふと視線を逸らし、まだ薄暗い窓の方を見つめた。
その瞳には、帝である父に近づけぬ今の現実に対する、かすかな寂しさが滲んでいた。
しばしの沈黙ののち、ゆっくりとコモリの方へ顔を向ける。
「……顔に出ておるぞ、コモリ。ずいぶんと疲れたな」
その声音は、姉のようでもあり、仲間のようでもあった。
「少し休め。謁見までは、まだ時間はある」
「いえ、私も……できることを」
そう言いかけたコモリの言葉を、貴子は微笑みで制した。ゆらりと立ち上がると、そっと掌をコモリの頭に添える。温かな気配が額を包む。
次の瞬間、コモリのまぶたが静かに閉じた。
「……少し休んでくれ。また、お主の力が必要になる」
貴子は、眠りについた忍びの肩に、そっと布を掛けた。




