第三十四話 結界を守る者の覚悟
千空家の武家屋敷──。
夜明け前の冷気が、庭の苔に露を残している。
「……行かせて、よろしかったのですか?」
煙管を燻らせながら、道継が問う。
「……ああ。一度は、日野介に託す」
照雅もまた煙管を口に運び、ゆっくりと吐いた煙が天井の梁へと昇っていく。
夜通し一睡もしていない。だが、瞼の奥は冴えていた。
千空家当主としての責任──
それが、照雅の背に今、ひしひしとのしかかっていた。
「宗高様には、どう申し上げましょう?」
「……何も話すな。今夜、我らが見回りをしていたことすら知られては厄介だ。京極家が生き延びるには、波風を立てぬこと。宗高様の常のご意向だろう」
「承知いたしました。……では、何もなかったことに」
道継は煙を吐き、視線を障子の外へと投げる。
「──内裏の結界の乱れ。この件、帝の耳に届きましょうか」
道継の問いに、照雅はわずかに目を細めた。
「……届くと思うか?」
「いいえ。届きませぬな。どうせ、公家衆の手で揉み消されましょう。それどころか、帝の側近の中には、千代田信勝との関わりを望む者もいると聞きます」
「そうだ。やつらは常に己の保身を第一に考える。強い者になびくのが、あの者らの本性だ。……だが、ことはそれだけではあるまい」
照雅はそう言って、静かに嘆息した。
道継はひとつ頷き、声を潜めて言う。
「──徳子様、ですか」
「うむ。皇子をお生みになってから、側室とはいえ御威勢が増している。今回の謁見が急きょ決まったのも、徳子様のご意志があってこそ。すでに内裏の采配は、ほとんどあのお方の手中にあると見ていい」
「……中宮・聖子様がご健在であれば……」
「如何ともしがたい。ご病気で床に伏された今となってはな」
照雅は小さく息を吐いた。
「……となれば、我らはこのまま、結界に乱れを抱えたまま明日を迎えるしかないと?」
「いや」
照雅は静かに首を振った。
「結界の守りは、千鳥家と千星家に託す。千空家は別の動きを取る」
「──茂吉と、あの剣士でしょうか?」
「ああ。いずれ明確な意図をもって再び現れる。ならば、こちらから動くしかあるまい」
「……どのように?」
道継が顔を曇らせる。
「一人──いるだろう。ふさわしい人材が」
「な、兄上。まさか……あの人を……!」
「ああ」
「なりませぬ!あの人を使えば、何が起こるか……!」
道継の声がわずかに揺れる。
だが照雅は、静かに煙管を置き、まっすぐ道継を見た。
「構わん。結界の守護に、身命を賭すのが我らの役目。お主も、その覚悟でここにいるのだろう」
照雅の言葉が落ちると、道継はわずかに目を伏せた。
しばしの沈黙。
煙管を膝の横にそっと置き、片膝を立てて姿勢を正す。
「……はっ。兄上の御志に、どこまでもお供いたします」
障子の向こうに、朝の気配が忍び寄る。
◆
東の空が淡く染まりはじめている。都に夜明けが近づいていた。
櫓の階段を、日野介は駆け上がる。扉を開けると、
「日野介殿……!よくぞご無事で……!」
宵乃が駆け寄り、そのまま日野介に飛びついた。
反射的に受け止めた日野介の腕の中で、宵乃の肩が小さく震えている。
それを感じて、日野介はようやく息をついた。
「……お前も、無事でよかった」
「心配したよ……。ずっと戻らないから……」
宵乃の瞳が濡れていた。
だがすぐに、彼女はふっと顔を上げた。
日野介の袖はざっくりと裂け、顔には土埃と汗、そして疲労がにじんでいた。
「……何があったの?」
「ああ。順を追って話そう」
日野介は一歩下がり、静かに床に膝をついた。
白装束の宵乃も、向かいに座る。二人の間に、わずかな緊張が走る。
日野介は、ひとつ息を整えると語り始めた。
ようやくたどり着いた、内裏の外──南西の角。そこで現れたのが、茂吉と、そしてあの剣士だった。
「……茂吉と、俺の師を殺した男が、そこにいた」
宵乃の表情がわずかに揺れたが、何も言わず、じっと聞き続けていた。
「剣士と戦った。だが、俺の刀は弾かれ、地に落ちた。──正直、命はもう尽きると思った。だがそのとき、千空照雅が現れた」
「……千影神社の茶室にいらした方」
「そうだ。彼が現れたことで、茂吉たちは撤退した。忍びの術で、煙のように姿を消した。……剣士も共に」
「では、結界のたわみは……やはり彼らが?」
「証拠はない。だが、偶然にしては出来すぎている」
宵乃は静かに頷く。
「……じゃあ、あの結界のたわみは罠?私たちを誘い出すための」
「……照雅殿も、そう考えていた」
「私が──その罠に引っかかったのね」
日野介は静かに首を振った。
そしてわずかに姿勢を正し、言葉を選ぶように続けた。
「照雅殿の見立てでは──茂吉と、あの剣士の狙いは、お前だ」
宵乃は静かに頷く。
張り詰めた空気が、ふたりの間に落ちる。
「“黒衣のもの”たちは……やはり結界を狙っている。だから、結界守の私を」
やがて日野介が問う。
「……照雅殿が、お前に会いたいと言っていた。どうする?」
宵乃は目を閉じ、ひとつ深く息を吸った。
「……会うわ。私からも聞きたいことがある」
「なら、俺が伝えてくる。そう約束してある。ここに来てもらうことになるが……」
「私も行く。このまま守られているだけでは、何も見えてこない。自分の目で確かめなければ──案内してくれる?」
日野介が眉をひそめる。
「だが、ヨリ様との約束があるはずだ。ここを離れてはならないのでは?」
宵乃は首を横に振る。
「ヨリ様は、最後は私の判断に任せると。それに、出るときの決まりもある」
そう言って、宵乃は袂から黒い札を取り出すと、南の扉の引き出しに迷いなく差し入れた。それは、“結界守がその場を離れる際の証”だった。
しばしの沈黙ののち──宵乃は顔を上げた。
その瞳には、確かな意志が宿っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回は宵乃の覚悟のパートです。ずっと受身だった宵乃が自らの意志で動きます。
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