第三十三話 コモリの逡巡、土蔵での対話
──内裏の南西角、塀の内側。
薄霧の術が解けても、コモリはその場から動かなかった。
結界の乱れの原因は、まだ掴めていない。だが──茂吉とその一派が、乱れの中心にいるのは間違いないと、ほとんど確信していた。
静かに息を整え、コモリは指先を唇に添える。
そして、自分のフクロウにしか聞こえない、ごく微かな指笛を吹いた。
……だが、返事はない。
(……やはり、フクロウは殺られたか)
そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられるように苦しくなった。
あの子は、ただの伝令役ではない。私の一部のような存在だったのに──。
そのとき、塀の外から足音が聞こえた。
そして──複数の人間の声が、夜の静寂を割って交差する。
一つは茂吉の声。そしてもう一つ──
日野介!
厚い塀に遮られて、言葉までは届かない。
だが、その声色は間違えようがなかった。
(……なぜ、日野介がここに?)
彼は本来、宵乃の護衛のはず。ここにいる道理がない。
だが、考えうる理由は一つしかなかった。
──宵乃が、何らかの異変を察知した。
その確認のために、彼を代わりに向かわせた──。
そう考えれば、貴子様が語っていた話とも符号する。
点と点が線になり、すべてがつながっていく感覚があった。
そのとき──
カンッ!
乾いた金属音が、夜の闇を鋭く裂いた。
(……戦っている)
刀と刀がぶつかり合う音。
聞き慣れた者には、それが誰の剣かわかる。
(あれは──日野介と、茂吉のそばにいた者……)
日野介は強い。だが、相手は二人。しかも、一人は兄・茂吉。その腕を、私はよく知っている。
(どう考えても分が悪い)
コモリの指先がわずかに震えた。
加勢に行くべきか? 今なら、まだ間に合うかもしれない。
……だが。
(これは罠かもしれない)
結界に起きた異常は、すべては誘い出すための布石。
奴らの真の狙いは──
(宵乃殿……!)
そのとき、頭上から怒声が響いた。
「お前たち、何を──!」
回廊の上に立つ見張りの兵だ。
コモリの位置からも、その背中がかすかに見えた。
これで戦いは止まる──そう思った、その瞬間。
黒い影が、音もなく現れた。
──茂吉!
彼は無音のまま回廊の上に着地し、瞬時に印を結んだ。
その所作は一瞬だった。
見張りの兵は声を上げる間もなく、膝から崩れ落ちる。
(猿眠の術──)
飛賀の里に伝わる、眠り秘術。これで見張りの兵による介入も、停戦の機会も、すべて断たれた。
そのときだった。
コモリの背筋が凍る。
──茂吉が、こちらを見た。
姿も気配も藪の中に完全に消していた。だが、それでも──視線が交錯した気がした。牽制するような、挑発するような、淡々とした眼差し。
(見られた……?)
普通なら、暗闇の中のこちらを捉えることなど不可能だ。
だが──茂吉になら、あるいは。
その刹那、鋭く重たい斬撃音が夜を貫いた。
──日野介!
コモリはとっさに身を起こしかける。
だが、地を蹴ろうとした足に、重たい決断がのしかかる。
今加勢に行けば、茂吉との戦いになる。果たして、自分は勝てるのか。
葛藤が胸をよぎったそのとき、遠くから馬の蹄音が聞こえた。
重みを帯びた足音が、一定の間隔で近づいてくる。見回りの兵か、それとも役人か。
コモリにとっては、ひとつの救いだった。
これで日野介は、助かるかもしれない──そう思った。
次の瞬間、塀の外に黒い靄が立ちのぼった。
それは風もないのにブワッと広がり、わずか数拍のうちにあたりを包み込んだ。その濃密な靄の中に、茂吉とその仲間の気配は溶けていった。
(……茂吉は、姿を消したのか?)
耳に届くのは、やがて遠ざかっていく蹄の音だけ。
コモリは塀のそばの木に身を躍らせ、枝を伝って塀の縁へ。
身を縮め、音もなく回廊の屋根に着地する。
そこから見下ろした先──月明かりに照らされた道。
二頭の馬が遠ざかっていく。そのうち一頭の背には、後ろ手に縄で縛られた男が乗せられている。
を歩く鎧姿の兵士が、手綱を引いていた。
日野介──。
月が雲の隙間から出て、かすかに彼の横顔を照らす。
その顔に、意識はあるようだった。
(……助けに行くべきだったのか?)
夜の静けさが戻る中、胸の奥に沈んでいくのは、かすかな鈍痛。
何かを取り落としたような、ざらついた感覚だけが残っていた。
◆
土蔵の一室。
ひんやりとした土の感触が、尻に伝わる。古い木の香りと土埃が鼻をつき、灯籠の淡い光が埃を浮かび上がらせていた。
日野介は、縄で後ろ手に縛られたまま、黙して座っている。
(……俺を、どうする気だ)
日野介の目の前には、照雅が腕を組んで立っている。その傍らには、熊のような体格の髭面の大男──獣じみた眼差しが、刺すように向けられていた。
「縄を外して、刀を返してやれ」
「な、何ですと……!」
大男が眉をひそめ、声を荒げる。
「力づくでは何も得られぬ。まずは、腹を割って話がしたい」
しぶしぶといった様子で、大男は小刀を抜き、日野介の縄を切った。
続けて、鞘ごと刀を手渡す。
「私は千空照雅。そして、弟の道継だ。お主の名は……?」
照雅の低い声が室内に響く。
「日野介だ」
「私は京極家の家臣。都の守護を預かる者。──本来なら、内裏近くで刀を抜いた時点で、牢送りが筋だ」
照雅は言葉を切ると、真っ直ぐに日野介の目を見た。
「だが、今ここで語っているのは、千空家の主としてだ。……この場に罪は問わぬ。この土蔵も、私的な場だ。耳をそばだてる者もおるまい」
日野介は黙ったまま、照雅を見返す。
「今朝、千影神社での会合があった。あれは都の結界を守るための話し合いだった。そして、六家のひとつである千空家として、その責務を果たさねばならぬ」
言葉にわずかな熱がにじむ。
「正直に答えてほしい。──なぜ、あの場にいた?」
(信じていいのか……)
何より、自分はかつて“仲間”だった茂吉に裏切られた。その事実が、簡単に人を信じるという選択肢を遠ざけている。日野介はすぐに返事ができなかった。
「では、お主と千鳥宵乃の関係は何だ?」
「仲間だ」
「そんなことは分かっておる。今夜のことを聞いている」
照雅の低い声が土蔵の中に響く。
「……護衛をしている」
「ならば、なぜ主を離れた?」
道継が、低い声で割り込んだ。
「確かに、あの場に宵乃殿はいなかった。──筋が通らぬ」
日野介は一瞬、言葉に詰まる。宵乃の居所は明かせない。
だが、虚偽の言葉を口にするのも違う。
「……宵乃が、結界の異変に気づいたのだ。……俺の判断で、その確認に向かった」
照雅の眉がわずかに動く。
「異変、とは?」
「……詳しいことは俺も分からない」
「では、宵乃殿は、あの場の結界に異常があると見たわけだな?」
「……ああ。そうだ」
「そして、あの場に現れた忍びと剣士──忍びは茂吉で間違いないな?」
「ああ。間違いない」
「……やはりか」
照雅の目が細くなる。
「で、その異変の原因は分かったのか?」と、道継。
日野介は首を振って答える。
「あいにく俺は単なる剣士でね。結界のことは、あんたらの方が詳しいんじゃないのか」
皮肉混じりに笑った次の瞬間──道継の槍の柄が、日野介の頬を打った。
「口を慎め!無礼者が!」
「やめておけ!」
照雅の一言に、道継は鼻を鳴らして引く。
「お前一人で、あの場を乗り越えられたと思うか?我らが来なければ、命を落としていたぞ」
その言葉に、日野介は唇を噛んだ。
たしかに、師の仇と向かい合ったその場で、自分は何もできなかった。
「それでも、お前は立ち向かった」
照雅の声には、わずかな評価がにじんでいた。
「彼らの目的は何だと思う?お前の話が事実なら──わざわざ今夜、内裏の外で目立つ行動に出たのは不可解だ」
「わからない。騒ぎを起こせば、明日の謁見は中止になるはず。なのに、なぜ……」
照雅の目の奥がわずかに曇った。
それを見て、日野介が口を開いた。
「……罠か。俺たちを誘い出すための……?」
照雅は静かに息を吐く。
わずかに目を伏せてから、低く応えた。
「ああ。……そうしか考えられん」
一拍置いて、照雅は唇を結び──
「奴らの狙いは、おそらく──宵乃殿だ」
「……なっ」
息が詰まった。
日野介の目が見開かれる。
喉の奥で、何かが引っかかったように言葉が出ない。
照雅はしばし沈黙し──日野介を見た。
「……宵乃殿と、会わせてもらえないか?」
その言葉に、日野介は返さなかった。
ただ、静かに視線を伏せる。
(それは、できない)
まだ完全に照雅のことを信じたわけではない。例え、宵乃と同じ六家の人間であったとしても。
「……それは、俺が決めることじゃない。宵乃に聞かないと」
灯籠の火が、小さく揺れた。
「夜明けまでに戻ると、約束した。まずは……彼女のもとに、帰らせてくれ」
そう言って、日野介は初めて頭を下げた。




